『ねえ、おじいちゃま。どうしておかあさんは、お隣のタク君にひどいこと言われなくちゃならないの』
『それは……、花蓮が知らなくてもいいことだよ』
『やだ、知りたい!どうしておかあさんがアバズレだとか寝取り女とか言われなくちゃならないの?
おかあさんは普通だよ。だって、ただ毎日仕事して……おじいちゃまの手伝いして、私やお兄ちゃんを育てて
くれただけじゃない。タク君がそんなこと言える資格ないよ!一緒に住んでるわけでもないのにっ』
『……花蓮』
『ひどいよ、ひどい、……よぉ……なんで?なんで、どうしておかあさん、そんなタク君のおうちに、
住むことになっちゃったの?』
『……』
『花蓮は、……こうづきの、かれんじゃ、なくなっちゃうの……?』
『……』

(ねえ)

『教えてよ、おじいちゃま……』

(教えてよ)

『どうして、私のおかあさん、私にサヨナラなんて……』






(言ったの?)







薄手のカーテンに覆われたような夢からふっと目覚めたカレンの双眸に、一番に映ってきたのは、
朝のアラームをけたたましく告げる、机の上に放り出されたままの自分の携帯。
半端にまとったシーツから抜け出るようにベッドを降りて、そのアラームを止める。窓を見る。
そこに映った血の気のない顔を見て、吐き気が込み上げてきた。






























ふしぎと根拠のない希望だけはあるのです








































重要無形文化財-----------とは、随分大仰な形容ではあると思う。
だが、現在長野にて静養を名目に弟子の育成を主としている藤堂鏡士郎(枢木スザクの師)は、間違いなく
そう言っていい、国家的に認められた人間国宝≠セった。
同じく、文部科学省より裁定されるというその無形文化財に選ばれた人は、カレンの身内にもいる。
……いや、花蓮の、と言ったほうが正しいかもしれないが。




(履歴書を書くたび嫌な気分になるわ)



カレン=紅月=シュタットフェルト

中学の頃、母親が再婚したのと同時に日本という国名がなくなり、ブリタニア本土の侵略を受ける際
下の名前の読み仮名さえ変えざるをえなくなった----------カレンの名前はその時から
漢字ではなくなり、ただの音になった。


本当だったらカレンは花蓮で居られた。

無形文化財に文部科学大臣から選ばれ、ブリタニアにも器を贈ったことのある祖父が
『花のように可憐であるよう……』とつけてくれた大事な名前。居られるものならずっとそれで居たかった。


なのにどうしてか?

勿論、スザクの父であるゲンブ首相がブリタニアの再三の政治的制圧に
徹底抗戦を訴えながらも、自身は精神衰弱を極め、結局自殺したからである。



(……別に、そのことに対しては今はもう何とも思ってないわ)




毎晩同じ時間帯に同じくらい長い時間をかけて向かっている机の上、
そこに置かれている空欄の目立つ履歴書に、ハア、と
思うようにいかない就活への疲れを如実に滲ませた溜息を落としてみる。
だけどどうせそうした所で----------いや、そう考えたところで、自分の肩にのしかかってくる重圧が
溜息を吐いたぶんだけ、軽くなってくれるわけではないことを知っていた。




(わかったから、もう、やめてよ)






紅月の籍から外され、母とともに今はシュタットフェルトの屋敷に一応の戸籍は置いている。
だが、紅月の一子相伝の文化を持つ、そこの家元を齢90となっても家元として護る祖父からは、
院生としてガラスを溶かしている時からずっと『帰ってこい』という手紙を何通も貰っていた。


その祖父が、先日倒れた。



この万能な時代に何て時代遅れだ、と鼻で笑ってしまいたいが、
その報せは電報で受け取った。


内容は見て愕然とした。並大抵の男には負けない力を持つカレンよりも、
まだずっと逞しい体を持つ祖父が、腰を弱くして、窯のある離れで崩れた軒の下敷きになったらしい。
今は実家で半身不随となって休んでいるそうだが、……教職にもいかずただ学歴だけとって卒業した自分のことを
正式に紅月の家元として召喚しようと、どうやら長年の付き合いである内弟子たちと話しあっているそうなのだ。



(そんなの無理よ)


信じられない話だ。



祖父は土に愛を注いで、自分は、指先の先の神経まで、全部ガラスに注ぎ込んだ。


温かみのある器になる陶芸と違って、同じ工芸とはいっても、冷めてしまえばとても脆いガラスに
変わり果ててしまう自分の能力では、畑違いすぎて、紅月の名はつげない。



だがそうだといって、先の見えない就職活動が好転してるわけでもない。


はは。ちゃんちゃらおかしい。大学院を修了してから
私の人生は何も進んでいないじゃないか。


ならば結局の話紅月を継ぐために実家に帰ったところで、カレン自身を悪く言う奴なんて
誰一人居ないだろう。
もう帰ってしまおうか。
帰って、都会に比べて空気のいいとこしか利点のないあの実家を拠点として
山籠りよろしく陶芸制作のほうにシフトチェンジしてしまおうか。











































今年の一月初め----------ルルーシュに贈るバレンタインに金沢産の粘りのある土を使いたいから、という理由で
枢木スザクから誘われて、何とかその土を持って帰ってきて、そろそろ二カ月経つ。つまり三月。ああ、三月。そう、
何が言いたいのかというと、結局定職につけないままこの一年が過ぎてしまったということだ。


ハローワークの職員以外に誰にも相談してないのがいけないのかもしれないが、
カレンにだって、大学の講師くらいの口は空いてるんじゃないか、と思った時期もあったりした。
だが、何故か院まで在学してたカレンよりも大学の実技室を根城にする講師連中と仲のいいシャーリーが
語るに曰く……

「ああいうのってね、学生を雇う短気アルバイトより時給が安く設定されてるんだって」


(!!)

月給として働いていると、自分が一体一時間何円で雇われているのか気づかない輩は多い。
あやうくカレンも、月に十五万手取りで貰えるからといって、実質、週六日勤務で時間に換算すると一時間500円も
もらってないような状態に陥っているところだった。


なら。


(今ものうのうと講師を続けている枢木さんの月収て、いくらなのよ!)


と、気になった。






流石に恥ずかしかったが就職活動を続けていく上で参考にしたい、というのも事実ではあったので、
シャーリーも一緒だったから、マンツーマンの二人っきりではない三人で茶を飲むくらいは
ルルーシュでも許してくれるだろ、と思って、ある日女子大のほうに突撃して訊いてみた。















「え?月収……?考えたこともなかったよ。だって全部ルルーシュの口座にいれてもらってるから」




(!!!)


















はぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ?!



月収を
ルルーシュの口座に、
直で!
いれてもらっている……?!




そりゃ彼が盲目にルルーシュを愛していることはよもや既に世界の理のようなものになってるが
---------流石に、ちょっとそれは、口座に全部振り込んでるって、いくらルルーシュ相手だからって、やり過ぎだろう。


それに『いくらなのか把握してない』とはどういうことだ!?
月々の家賃の支払いは!携帯の代金は!?食費は?!バイクのガソリン代……画材……
その他諸々の生活費は???!!!月にいくら貰ってるのかも知らないで
ちゃんと滞りなく払えてるというのか?




信じられない気持で一杯だった。
だが隣にいたシャーリーは『なるほどねぇ』と深く頷くだけで、
何でルルーシュの口座を、二人の同居生活における一括金庫にしてるのかについては
言及しなかった。


だが、やはり気になる。


枢木スザクが大学から貰ってる給料って……一体いくらだ!




(大体でもいいわ)


カレンはきょとんと眼を瞬くスザクを前に、脳内で計算し始めた。











生活にかかる諸経費を抜きにして、自由に使えるお金は手取りで……20万くらいかな?
成人男性にかかる諸経費なんて女子のものと比べればたかが知れてるわよね。
オタクでもないんだし、きっと10万あれば余裕で毎月車検に出せるくらいはゆとりがあるでしょう。
ならばその諸経費も含めて考えたら……月に30〜35万くらいか。


それが一年分だったら、年収は……アレ、500万もいかない。大したことない?
いや、でもお祖父さまが無形文化財に選ばれて紅月が門下生100人超える全盛期だった頃は、
月に1000万弱は稼げてたはず。
なら何?うちでいう門下生から貰う受講料みたいな感じで、枢木さんのほうも
給料以外に儲かる副収入みたいなもんがあるんだろうか。


(そうじゃないと何かしっくりこないわ……)


スザクの今日のスタイルを見る。
午前の講義も終わって研究室でほっと一息ついていた所だったのか。
自分では締められないからルルーシュが締めているというネクタイの首元をゆるめて、背広だけ脱いだシャツ姿で
コーヒーカップを片手に持っている。そこらにいる教授と何ら変わらないヴィジュアルだ。でもその見た目だけで
判断してはいけない。


ドアから少し中を覗いて、乱雑に書類とレポートが積み重ねられた机を見る。
その上にぽいっという感じで置かれた平べったい長財布を見て、『うう』と唸りたくなった。


(すごい……あれ知ってる……ブル○リに特注で頼むペアの革財布だ)


肩をわるくしているだけにスザクはショルダーやリュックといった手荷物を納める鞄類は絶対に持たない。
故に彼はいつだってポケットに財布だけ突っ込む軽装で出勤する。
そしてその突っ込まれる財布は仕立てのいい薄いフォルムで上質なものに限られるはずだ。
つまりあれは彼が自分自身で選んで買ったものなのだろう。
そう、スザクが所持するもので一番高いものであるのは間違いなく……あの財布だ。


(あんなもの自分の稼ぎの中から買えるんだから、相当大学側からも貰ってるんでしょ。
枢木さんの場合当然学長から指名されて面接とか受けたんだろうし……きっと、枢木スザクという名前だけで
来年度もこの大学は入学者に困らない!ならその『名前を使わせてもらってますよ』代金も給料に加味されてて
当然なはず!別にこう考えるのが不思議なことはないわよね?普通考えるわよね?別に私が卑屈に考え過ぎてる
わけじゃないわよね……ねっ、シャーリー)


と隣にふと視線を走らせたら、既に彼女はスザクと談笑して、この部屋に来た理由の半分を
忘れかけていた。


「ちょ!ちょっとシャーリー!!私だけ独りにしないでっ」
「え?ああ、ごめん。何かブツブツお金が……とか言ってたからさ。集中してるとこ邪魔しちゃ悪いかなって」


お金が、なんてそんな即物的なこと呟いていたのか。
瞬時に、顔が赤くなった。


「カレンさん、最近おかしいね。何か変わったことでもあった?」
(おかしいね、って断定された……)
「い、いやいややや、や、そんなことない、ですよ。ただちょっと、その、枢木さんの七不思議をひとつというか、
その……助手時代に訊けなかった不思議に思ってることをですね、お聞きしたかったんです!」


裏表ない言葉だとスザクが思うように、はきはきと口にした。


(そうよ)


何も給料のすべてをルルーシュの口座にいれているからって、
それだけで『ブルジョア!』とか、『金に対する執着はないのか!』とか、
言うつもりはない。
ただ、いくら給料を預けてるからって……一銭も自分の懐にいれてないわけではないだろう。
スザクにだってルルーシュ以外との付き合いがあるんだから。

(金を管理してるのがルルーシュってなだけで、別に、ルルーシュが枢木さんの稼いだぶん全部を
好きにしてるわけじゃないでしょ)



と思っていたカレンを裏切るがごとく、


「あ、電話だ」


財布の下に置き忘れていた(らしい)携帯を机にとりにいったスザクが口にした言葉に
彼の研究室を突発で訪問しにきた二人は唖然とした。



「うん、もしもしルルーシュ。今?大丈夫だよ。……え、カードの支払いが追いつかなかった?そう、じゃあ
僕の使っていいよ」



「「ええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」」





ボクノ ツカッテ イイヨ!




(って、)


え!?僕のって……枢木さんのお給料のなかからってことですか。




シャーリーも同じことを思ったのか、気付いたら顔を見合わせていた。



「す、スザクくん……ルル、ルルに、お、おか、お金、を、かしてるの?」
「うん。この間行ってきた出張の新幹線代が落ちなかったんだって。カード止まっちゃうから、
わるいけど僕のお金使わせてもらうって」
「え、え、えええ!出張の新幹線代ってスザクくん関係なくない?!どうしてそんなハイドウゾって軽さで
かしてあげられるのっ!?」
「いや、まあ、そもそもかすっていうか……あげるに等しい感じ……だけど……変?」
「?!」

かくん、とまた首を傾げられた!


金にルーズな恋人よりはマシだが、その逆パターンで、かえってこっちのほうが
大変だろう!


(信じられない……)



つまりアレか。
スザクは自分の給料をすべてルルーシュに預け、そのルルーシュは預けられたそれを自分の給料と同じ口座で管理する傍ら、
有事の際には躊躇いもみせずに『借りるよ』の一言だけかけて、使う、と。
言い換えると枢木スザクの収入を自分の収入と同じように使う権利があると。
そういうことなのか。




す、……


すげぇぇぇぇぇ。



マジでー。














ドン引きである。仲が良すぎるそれ以上にドン引きである。



「く、砕け散ったわ、シャーリー」
「か、かれん……」
「次元の違う世界で生きてるとは思ってたけど、やっぱり私には神々しすぎたわ……もう凡人には立ち入れない領域よ。
神の域よ。結婚とかそれ以前に枢木さん、お金に執着しなさすぎたわ。ガッカリだよ。ガッカリよ!ほんとにっ。
私が家に帰るか帰らないで悩んでることなんて、枢木さんの心の広さと比べたら、全くもって瑣末なことだったわー!!」



わー、ワー、ぁー……と残響が研究棟に響いた。








「……帰る……?」



しん……と廊下が静まった頃。
翡翠がカレンを映す。
へ、とぽつりと落とされた呟きに今度はカレンが瞬いて視線を返したら、
珍しくスザクのほうからぐっと腕を掴んできて、『それは確かか』と言わんばかりの勢いで
ドアのほうに引き寄てきた。


「!……っ、」
「ほんと?それ」
「は、はい。……えっと、私が家に帰ること、ですよね」
「悩んでるってほんと?ていうか、帰ってこいって誰に言われたの」
「その……祖父ですが。……だって私就職してないし。もうこのご時世を考えると実家継ぐしかないかなっていう。
だから」

あの、その、えっと、と紡ぐカレンの手は離さないまま、
スザクは先ほどまで纏っていた空気を一変させ、厳しい眼差しでカレンを見降ろした。
主に自分が引き寄せた手を見て。

「紅月の家は跡取りが居ないって藤堂先生とも話題になってたけど……でもだからってカレンさんが
継いでどうにかなるもんでもないでしょ」
「はあ」
「君はガラスでしょ」
「はい」
「土弄りには向かない手だ」

きっぱりとそう言い切られた。




スザクの無機的に見える視線はこう言っている。

自分の進む道が無いからといって、
いくら跡継ぎがいないからって女の身一つで行くのは
まるで生産的じゃない、と。

しかも打算でつき進めるほど、
例え工芸という括りは同じであっても、陶芸の道はそれほど優しくはない。
ガラスとは製造過程からして違う。
手工芸ではあっても、……成人した今になってまた新たに学ぼうとしてみても、
無形文化財の祖父には到底及ばない。そんな------------家元≠ノなる姿が、何だか予想できてしまうようだった。



(でも私は-------------)



シュタットフェルトを名乗ってはいるけれど、れっきとした日本人で、
紅月の血筋のものである印を使って制作もしている、作家だ。


当然、見過ごすフリなんてできない。



自分は、嘘がつけない性格であると重々承知していた。
だから、今も、こうして目の前の男と関わりを持っているわけで---------……。



「カレンさん、止したほうがいい」



なのにその男から自分の考えは単なる時代遅れな思いあがりだと言われる。

そうか。
そうなのか。
これが枢木スザクの意見なのか。さすが、最年少で研究成果を達して教授職に就いただけはある貫禄を持って、
こちらを心配げに見てくる。でもそれを受け止めているにはあまりにも今の自分は見っともなさ過ぎた。




何で彼が私なんかに対してそんな困った視線を向けてくるんだろう。
どうしてただの元助手のこれからのことに関して、そうまで突っ込んで訊いてくるのだろう。


いつだって、どんな状態でだって、何よりの一番はルルーシュなくせに。




(そうよ。……私なんてあいつと比べたら、何にも無いじゃない)




お金をたった一言で貸したりあげたりしているのは、それだけルルーシュの生活を支えるつもりで
スザク自身が働いているからだ。
そんなことに自分やシャーリーがあれこれ言っても無駄なこと。それが世間の恋人同士としては
ズレてると指摘したところで、やめたりなんてしないだろう。



なら、こちらの問題も同じだ。










いくら作家として先輩な身分でも、カレンがこれからやろうとすることを決める権利は
スザクにはない。
だから例え、たった一言『止せ』と言われたからって、何もこうまで考え込むことはないのだ。まともに受け取らなければいいのだ。


……と、思う、のに、なんで。


(なんで?)



「カレン……」


隣で黙って見守っていたシャーリーが肩を擦ってくる。
スザクに掴まれたままの手が小刻みに揺れだして、もう、自分では止められない震えになっていた。
頬を水滴がタラリと伝って、無骨な指が正面からスッと伸びてきて、優しくそれを掬い取ってくれる。
そこでようやくカレンは、自分がスザクに家の事情を打ち明けたことにより
泣き出してしまったことに気付いた。




















どうせ金持ちにはわからない苦悩よ、……とこれまでスザクが独りで背負ってきた辛苦を
顧みないで自分の殻に閉じこもって、心中低く毒づく。

自分が助手として院生時代やってきた制作の中で、一度だけ本音でスザクと話し合った時、
そこで『君を尊敬してる』という言葉をもらって、自分をようやく認めることができて、そこで
何年も固めていた厚い殻が割れてくれたと思っていたのに。


結局は一人善がりだった。
何も成長なんてしてなかった。


正しいと思っていたのは自分一人だった。



やはり、ずっと一人で考えて行動してきた期間が長いだけにスザクの言う一言は重い。
強引に引き寄せられ、掴まれた手が、まだ離せないままに。





テニスサークルなのか、白いラケットに青空もびっくりして逃げてしまいそうな輝かしいオレンジの
キャップと揃いのスカート姿の学生たちが、カレンの涙が落ち着くまで、研究室から学生食堂前のロビーに
場所を映し、ぼんやり宙を見つめていたスザクに手を振って去っていった。
スザクも相変わらずにこにことして、カレンの俯く体と背中を支えたままに、もう片手では軽く手を振り返している。
少しだけ触れた部分から伝わる振動でスザクがそうしていることに気付いた時、同時に、
シャーリーは仕事だから、と居なくなってしまったことと……まるで売れ残った醜い顔した金魚みたいな泣きべそをして、
スザクの肩に縋りついている自分に、ようやく正気にかえった。


「こっ……ここはっ?!」
「ロビーだよ。研究棟の裏口から来ちゃったから正門までの道筋はわかりにくいと思うけど、
帰りは安心して。バイクで送ってくよ」
「……すいません。ありがとう、……ござい、ます」
「どういたしまして」

繋いだままの手の感触が、今更ながらに恥ずかしくなった。
こうして触れられることは初めてではない。けれど、少しだけ自分より冷たい手をしているスザクのその手の感触を
知ってるのは、------------もしかしたら自分とルルーシュだけ、そう思うと、
どん底に沈みそうだった体が、閉じこもった心ごと、フワリと軽く浮くようだった。

(そうだったら嬉しいけど)


本当に、……そう、心底。




でもそううまく事態が転じてくれるわけもなく、二人きりの時間があと少し続くかに思えたところで
スザクの携帯が鳴った。はいもしもし、とすぐ出たスザクの手はカレンから離される。右手……そうか、
ずっと利き手のほうと繋がっていたのか。


我ながら信じられないほど顔を赤くして、スザクの通話が切れるのを待った。
なぜか先ほどまできゅっと繋いでいた手を、今は膝の上にぎゅっと固めて。









……五分くらいした。スザクは静かに携帯のフラップを閉じて、こちらをそっと伺うように見てくる。
視線だけでもじりじりと焼くように感じる。
緊張してどうしていいのか解らないでずっと掲示板のほうを睨んでいたら、その肩に、こつん、と、何か押し当てられた
感触がした。
(……?!)
「っ……」
枢木スザクが、
その額を当ててきたのだ。





予想外でもあったし、突然のことに、ひゃっと声をあげて驚く。


「どうしたの」
「くっ、くるるぎさんが、とつぜん……か、かたむいて、くる、から」
「肩にもたれかかっちゃいけない?」
「い、けなくはないですけど、その……ここ、大学だし、貴方のこと気にしてる子が一杯居るから、ぁ、その、
ルルーシュにもだけど、その、……やっぱり、遠慮しなきゃ」
しどろもどろな口調に、さらに輪を掛けて語尾が小さくなる。
「?」
「だっ、だから……〜〜〜その、勘違いしちゃうんです!!貴方にやさしくされてっ……わ、私のこと
す、すす、すき、す……好きなんじゃないかって」


バレンタインだって、女では自分一人だけがこの人から陶器をもらった。
一体時価でうん百万するんだ、と持って帰った家で眺めてしまったが、大事に木の箱にいれて
湿気のない場所に保管してある。


だから、勘違いしてしまうのだ。
こんな風に、普通の女の子にはしやしないだろうことをされてしまうと。

こんな風に、一見したら……恋人同士に見えてしまうんじゃないかということをされると。















「奥ゆかしいね、カレンさんは」
「お、おくっ……?!」
「好きだよ、そういう、世間に対してスレてないとこ」
「……」
「あと、そうだな。僕より頭がいいはずなのに、向こう見ずなところがあるトコとか。
ルルーシュとよく口喧嘩する時に見せる泣きそうな顔とか。してやったり顔とか。……おお、意外と僕
人の表情見てるね」
「……」
「なんか、可愛いね、カレンさん」
「か、かわいい、ですか」
「かわいいかわいい」


ニコニコ、と変わらない表情のまま言われる言葉の数々。
その一つ一つが火力のように、カレンの胸の中を熱くさせて、
どくどくと鼓動をはやくさせていることに気付かないのは、やっぱり天然なせいなのか。


チラ、と盗み見るように視線をあげて、一度きゅっと手に力を込めた後、
思いきって口にしてみた。

首元に少しだけ当たるくせっ毛の感触が心地いい。


「……って、みたい、です」
「へ?」
「私も、前、枢木さんが手触ってきたのと同じように、その、ふ、ふれて、みたい、です。
枢木さんに」

僕?と指で自分自身をさされる。それにこくり、と頷くだけして、カレンは肩を並べて座って居た体勢から
向かいあう体勢に変えて、正面にスザクの顔を据えた。


どきどきする。

こんなこと、滅多にあるチャンスじゃない。



ルルーシュも、後輩も、シャーリーも学生も、そう、誰も居ないのなら、
カレンの心に歯止めをかけるものは、ここには何もない。


だから、と。



「目を閉じて、その、痛いことは何もしないので……ゆっくりと力を抜いてみてください」
さっき凭れかかってきた時と同じように、と。まだ若干語尾を小さくしながら言ってみたその一言に、
正直に頷いたくせっ毛はこくん、と傾いて、すっと一息吸った後、薄い瞼を閉じて、
その肩の力を抜いてくれた。


ほ、ほんとにいいんだあ……と、まだ少し尻ごみ気味ではあるけれど嬉しい気持がやはり勝って、
まずカレンは手を伸ばして、肩に触れてみた。ぴく、とスザクの肌が僅かに強張る。だが拒絶したりはしないので
また改めて指を伸ばし、撫でるように上腕の形を憶えるように、触った。
(すごい……)
やっぱり何度も手術を経験して、それよりも辛いリハビリもして、千切れかかった腕を日常生活が送れるまでに
取り戻した人の筋肉は、常人のものよりずっとしなやかで硬い。
顔が童顔だからそうとは見えないが、スザクは脱ぐときっとすごいだろうと変な方向に妄想した。
ハッとそれに気付いて、慌てて首を振って邪念を飛ばした。一応自分のことを信頼して触らせてくれているのだ。
こっちも誠心誠意潔白な心を持って向かわなくては。……色んな意味で不憫すぎるというもの。
(よし)
切り替えるように深呼吸して、肩にあった手を少しあげて、今度は両方のその手でスザクの頬を包みこんでみた。
しっとりとした、弾力のある、肌の感触がする。
目を閉じたままでいてくれるから、克明にも飛び込んでくる。---------男にしておくには勿体ないほど
睫毛が長く、ふっさりと量があるそのパーツ。
(キスしたい)

まるで食事を前にした幼児のように、自然と、その欲求がカレンの中に生まれた。





唇は、意外と普通の人より厚くて、親指で触ってみたら荒れひとつない湿った感触がした。
散々黒髪のあの同居人としているのだろう、---------キスを、また、想像してみる。
目を閉じてただカレンが確かめるように部分部分に触れているのを受け入れているだけのスザクは
無防備だった。


どくん。
胸が高鳴る。

『行け』、とまるで脆弱なカレンを押し出してるようだった。





そろそろ夕焼けが落ちて暗くなってしまうだろう、屋外に面した学食前のロビー。
そこで目を閉じているスザクの肩や頬や唇に指先で触れていったカレンが、
とうとう境界を越えて、自分自身から身を乗り出して顔を寄せてることに気付くのは、
あと何センチのことなのだろうか。




黙ったまま、ただされるがまま大人しくしているスザクが、元助手の挙動に不審感を抱いたのは
閉じた瞼の裏から感じていた日差しが、ふっと翳ったのを感じた瞬間。
-----------ん?と瞳を開けたら、既に唇は吐息ごと奪われてしまった後だった。



睫毛が、目を瞬いた動きでパサッパサッと揺れて、音が立つ。
だけどそれを聞いたのは、その二人……キスをした、カレンとスザクだけ。






スザクの睫毛が実はルルーシュよりも長いと知ったのは、カレンだけ。