来週の休みには,これからの進路について教務課へ調べ物をしにいこう、と決めていた翌日。











「お兄さん、逃げて……!」







駅前通りの店が構えるその軒先で、人通りの多い改札をあけて続く地下街から駆けてきた強盗犯に、後ろから激突された。
そして、意識が埋没し気付いたら病院のベッドの上にいた。
何が自分の身に起こったのか把握する暇も隙も他人からの善意もなく、
その日から暫くの間、僕は瞬きすることもできない体になることを医者から宣告された。







まだ大学一年で、地方のド田舎からやって来たものだから、勉強よりもまず先に慣れることは大学周辺の土地勘だった。
それを鍛えるために実習のない午後は海沿いの道をブラブラと歩いて、下宿のアパートからそう遠くない位置にデパートがあるのを
発見したり、そのデパートからそんなに遠くないところに美味しそうなカフェがあるのを見つけたりした。
だがそんなことをしなくてもすぐに学校で知り合った友達がそこら中に連れまわしてくれた。
幸いにも無口で社交的でない自分を気にいってくれたその友人は、保育園から県外に一歩も出たことがない生粋の都会っ子で
休日に遊ぶと言ったらもっぱら駅前周辺のモールで、というイマドキの学生だったのだ。


そんな、大学入学して初めて知り合った同級生は、将来海外へ留学してブランドメーカーのデザイナーになりたいんだ
と、夢に持つ人間だった。



「なあ黒崎。そう言えばお前、二年から分かれる専攻ではどうする?」
「え?」
「高校とは違って教師のほうから進路を選んでくれるわけじゃないからな……
早め早めに決めておかないと」


友人がそう言ったのは、自分がデザイン学部に入学したのを考えてのことだっただろう。
対極にある美術学部とは違って、デザインは手仕事≠ニいったそちらの方面にある絵画や造形よりも
頭を使う作業的な仕事のほうが多く、ジャンルも服飾からジュエルデザイナーだったりと多岐に渡り、
それだけ自分たち生徒の面倒を見る講師の数も多かった。
講師一人につき『〜〜組』と言われる研究室がひとつ明け渡されてはいるが、
自分が最初から希望していた研究室に入るのは、学生の数が多いだけに、そう簡単なことじゃない。
しかも講師の数が多いことからデザイン学部は学部の中だけで500人は生徒がいた。
反して美術学部は実技ではない史学科も含めて200人くらいしかいないのだから、
暢気そうに学食のスロープでホットドックを食べてる姿を見ると、羨ましくなる。


「でさ、俺考えたのよ。やっぱカルデモンド先輩の友達を見習って
一年の頃から先生んとこにバイトしようと思って!」
「バイト?」
「ああ。バイトしながら先生のやってる研究の進行を盗み見るの。こう言うと変だけどさ、
でも大事なことだぜ。将来自分が職として手につけることなんだから」
「……そうだな」
「だから黒崎さ、俺と一緒にビリー組行かね?ビリー組ならさ就職率もいいそうだし……
先輩の友達は史学で何か元学芸員だった先生んとこで蔵書整理の仕事してたっていうけど、
ビリー組も志願すれば似たようなことやらせてくれるって」

狡猾、というか、現実を真っ向から直視しているというか……
自分が田舎者だから割と呑気なのかもしれないが、この友人のこの考えの早さには
正直敬服し、だが大分引いた。

そう思っていたことがもろにバレたのか、
または、一変して自分が神妙そうな顔つきになったからなのか、慌てて友人が
弁解するように顔の前で手をふった。

「違うぜ。別に下心があってとか……勉学のモットーを汚すようなつもりで
バイトしようって話してるんじゃないぜ」
「ああ。知ってる。そんな風に思ってなんてないよ。たださ、あと四年はあるっていうのに……もう就職のこととか、
研究室のこととか考えてるなんて、すげえなって思ったの」
「そうだよな。四年なんて、あっという間だぜ。黒崎」
「うん」


「ほんと、四年生になって後悔するなんて、したくないからさ」




そんなようなことを自分の世話係のような友人と話していたのが、駅前で強盗に襲われる三日前。
自分も誰の研究室に入ろうかな……なんて考えながら歩いていたのが、もしかしたら運のツキだったのかもな。

なんて。















------------四年生どころか。


僕はそれから病院のベッドの上でおよそ一年、寝たきりになってしまった。













当たりどころが悪かったらしい。
らしい≠ニいうのは、ろくに医者の説明を僕が聞いていなかったからだ。
だって、指が一本も動かせないんじゃ諦めも何もかも、胸に浮かんでくるはずないじゃないか。
ああだこうだ、とカルテを書きながら説明してくる医者の言葉すら、ろくに動けない体には
耳触りだったんだ。
その時の僕の心境は正しく、---------誰も構うことなく僕を放っておいてほしい。この一言だった。


あーあ。
どうしてこうなってしまったんだろう。
シミひとつない無菌状態の病室の天井を見上げながら、もう先の展望すら見いだせないというような
母親の冷めた姿を横に、思いにふける。

これから大学で四年間……院の修士課程をいれたら六年間、頑張っていこうと思ったんだ。
でもそう言えば何で僕はデザイン学部に入学したんだっけ?
そもそも高校では何をしていた?兄さんに続いてただ闇雲に剣道の竹刀を振って生きていただけじゃないか。


というか、あの友人はなんて名前だったかな……御見舞に一度来たきり姿を現さない。一年も休学することが
既に決まった自分の身の上を不幸に思って、一人勝手にビリー組に行ってしまったんだろうか。


……


それならそれで気を使うこともしなくていいから、暫くはずっと安らかに眠れそうだ。
そう、安らかに。
出来ればもう、永遠に目覚めないでいてくれ。この体。


(本当に何のために僕は大学に来たんだろう)













その男は遠藤早苗と言った。
『ボランティアの学生アルバイトで、某大学のデザイン学部には一浪してます。でも黒崎さんとは同い年です』
と少々自信なさげに小さな声で母親に挨拶したその遠藤、という男は、
普段つき添えない親に代わって自分の面倒を見てくれる、この時代にしては珍しく奉仕精神をもった
学生らしかった。


冬も終わって季節が春になると共に新学期の準備をしなければならない時期になって、ようやく、
自分の手足に感覚が戻り始めてきた。

実習などにはまだ出れないだろうが、
二年以上ロスした学部系の通常科目は受講できる。
頭を強く打ちつけたことにより、まだ視覚は復活していなかったが、それは付添人の遠藤が筆記でノートをとるなど
フォローしてくれるらしくって。
母親は慎ましやかにお辞儀をする遠藤をひと目で気に入り、『どうかこの子をお願い致します』と
涙に湿った声を振り絞るようにして、そいつに礼を返していた。



一浪してまでデザイン学部に入るなんて……。

それに研究室の仕事でもないんだから、ろくにバイト代なんて出ないんだぞ、と、
最初不思議な気持ちで一杯だった。

だがその女なのか男なのかよくわからない名前を持つ同い年の下級生は
『見返りは期待してない』と言い、
まだ覚束ない足取りで何とか歩き出す僕の手を下から支えるように持って
『これからよろしくお願いします、せんぱい』
と囁くような小さな声で、まるで僕を安心させるように呟いた。













遠藤、はよく働いた。
盲導犬じゃないんだからそんなことまでしなくていい、と言ったのだが、本当に彼は甲斐甲斐しく
自分の身の回りにあることを学内でよくやってくれた。
例えば僕がA棟の講義室といった大人数がおしかけても大丈夫なでかい教室で薬を落としたとする。
彼は、上から下へ階段をコロコロと転がっていくその薬を、ノートをとるのに必死になってる学生たちの前を堂々と歩いていって
若干息を切らしながら、ひろったそれを、『はい』と一声かけて、ポン、と自分の手の上にのせてくるのだ。

共働きの両親は最初これからも続けようとする大学生活に賛成しなかったが、
三日に一回は連絡してくる遠藤の律儀であり、真摯であるその人格に
視覚がない状態でも僕が全然不自由なく生活できてると知ったのか、
ピリピリと過度に心配する雰囲気は穏やかな春のぬくもりのようになって、
もう、僕の携帯にも連絡してくることがなくなった。


遠藤はよく僕に気をつかった。
入院していたせいで二年留年した僕は、今年入学した遠藤と同じ席で肩を並べて勉強していたが
僕は学力的には一浪した遠藤よりももっとずっと下だった。
彼は最初の受験の時に彼女が熱を出したせいで入試を受けれずそれで浪人したらしい。
だがそのおかげで一年間根を詰めて勉強することができて、奨学金つきの入学生として
この学校に行けれるようになったんだ、とそう語る、努力家な人柄だった。



え、彼女?

はい、同い年の、今は看護学校に通ってる子が、居ますよ。



遠藤はいつもの穏やかな調子を崩さず、僕の応えに答えた。


そうか。そりゃ居るよなあ。
声の調子を聞く限り、相当憎めない性格をしてると見える。
しかも声を聞く位置から察するに、彼は僕と同じかそれ以上に身長が高い。
おまけに造作もかなり整っているのだろう……母が一度電話口でもらしていた。
いくら学内だけとはいえ、美弦ばっかりが独占してていいのかしら、と。

--------そう、みつる。僕の下の名前は美弦と言った。


「黒崎さんの字って、綺麗ですよね」


何か、黒崎さんが目指す進路と同じで、芸術家って感じがします。

そうか?

はい。



……僕は胸に、氷水を飲んでヒヤッと喉が委縮するような感覚をおぼえて、
何だかその時無性に、自分の下の名前をそこで反復し続けた。
自分でもどうしてそこまでの感傷を覚えたのか信じられない……。けれど、
遠藤が少しだけはにかんだその気配をずっと覚えていよう、と、誓ったのだ。






























大学もとうとう後期に突入した。
後期の前にあった夏季休暇では、はじめて遠藤の彼女に遭遇し(邂逅?)
何故かわからないが、三人で海に行ったり、商店街を渡り歩いたり、美術館に行ったりした。
実習を控えている看護学生の遠藤の彼女……矢澤南という女性は、
物静かで大柄な遠藤とはおよそ対極をなす、小柄で豪傑な性格をしていて、
いちいち卑屈に考える自分に対して、思ったことをぜんぶ口にしてぶつけてきた。

若干遠藤の彼女に対して、自分でも解る見えないコンプレックスを抱いていたぶん、
その矢澤を含めて三人で何時間も過ごすことは意外なことで。
ましてや『美弦』『ミナミ』と下の名前で呼びかわすほど親しくなったのも
驚きなことだった。


僕は、遠藤を好きになっていた。友人とは別な意味で。
だがその遠藤が好きであるミナミのことも、好ましく思うようになってきていた。


なんだ、楽しいじゃないか、と。

目が見えないぶん、手を繋ぐとか笑いあうとか些細なコミュニケーションで存在のありがたみが
解るようになってくる。確かに僕はここに居ていいんだ、と思うことができる。ミナミにも認めてもらえたような気がしてくる。
--------何より、こうして三人で居ることが遠藤と二人きりでいるよりも自然なことのように思えてきて、
……そこで初めて僕は、これが人生を謳歌することなんじゃないかと思えてきた。


目が見えなくても進路がお先真っ暗でも、何だか周りのものが鮮やかに輝いてると感じられる。
そうだ。僕はこの関係がいい、と。
遠藤も隣で笑ってる声を聞いて尚更そう思ったのだ。


いつの間にか、胸の下に根付いた氷は溶けて水になっていた。





そして運命の日はやって来る。

































「黒崎」
「?……なに」
「あのさ、俺」

いつもと同じように教室移動で学食のスロープを渡っていこうとした所。
そこで突然立ち止った横の遠藤のほうを向いて、ん?と首を傾げた。
そのスロープを渡った先には美術学部の実技棟が並んでいて、
今にして思えばどうしてそこで遠藤が立ち止ったのか、解るような気がした。

後期にも入ってそろそろ二年から始まる専攻分けの準備を始めなくてはならない。
何となく隣にいる空気だけで、遠藤が自分の進路を考え始めてるようなことは気づいていた。
だからあまり自分から急かすことなく、続く言葉を待った。

だがそうして数分した後、遠藤が口を開くよりも前に、僕の左側の耳のほうに、鼓膜を突き破るような物音と
誰かが叫んだような声が飛んできたのだ。









「……?」
「造形棟だ」
「誰か機械でも壊したのか」
「いや、そんな感じじゃなく、なんか争ってるような声と音なんだけど」


どういうことだ。
瞼を閉じた顔に不安げな色を滲ませて遠藤のほうを見たら、
彼が何か動きだすよりも前に、その造形のほうからまた声が、響き渡ってきた。




「---------なるに決まってるじゃないか!」
「っ……」
「僕は、ごめん、賛成できない」
「どうして」


同じ年くらいの二人の男の声だった。
一人はやけに物静かなトーンで喋る男で、
相手にするややキーの高い男の声は、まるで絞り出すような弱弱しい響きで
自分の胸のうちを場所も時間もわきまえず吐露しだした。


「賛成できないって、どうしてだよ。お前だって俺に黙って三年間オランダへ行ったくせに……」
「あれは、君の場合とは違うだろ」
「場合って何。俺がしたのとお前がしたのと、……」

お互い感情を抑えた声で交わす口論は暫く続いた。
きっと向かう先はその実技棟の中だったのだろう。遠藤が僕の肩に添えた手はそのまま、
進んでいいのかここで立ち止まって聞いてていいのか、考えあぐねている姿が感じ取れる。

だが暫くした後、バタン!と大きく扉が開かれる音に続いて--------……
およそ芸術系の学科ではきかない罵声が届いた。



「お前はそうして御勝手さんみたいにしている俺がお気に入りなんだろ?
確かにお前と俺は友達じゃあないもんな。恋人ほど他人行儀でもない、血縁がないから家族にもなれない。
縛り付けておく方法が他にないんだ。でも俺は、それでも、ずっとお前の傍に居たいんだよ!」


まるで、自分が抱えていたぶんの感情を、すべて吐き出すような叫びだった。


キーの高いヒステリックな男の駆け足に走っていった足音は、どんどん遠くなっていった。
いや、それは、肩に置いた遠藤の手に後ろへと下がることを強いられたせいも、あったかもしれない。

ただあんなに言葉を強くして他人にものを言うのが信じられないと思った。
僕なんて、初めて感じた恋情すら心の底に小さく固めて、友情という確固とした繋がりを得たっていうのに。


「黒崎」
「……まさか、君」
「ああ」
「二年からの、専攻って」


行く先に響いた声の主から、僕は大体想像がついていた。


やたら静かにものを喋る声質が、僕の兄とそっくりだな、というだけで印象強かった人。
造形科Cブロック准教授、枢木スザク。

キーの高い男の声は知らない。走っていった方向が二階の院生室だったから、もしかしたら美術学部の
チューターか助手なのかもしれない。


……


で?と、僕は一度途切れた遠藤の言葉を催促した。


「相手は造形科の黒羊、しかも僕らとそう年が変わらない枢木スザクだぞ。
……君は転科する気か」
「まあ、そうかな」
「デザインは、いいのかもう」
「……何ていうか、黒崎も見れば分かると思う。俺がどうしてそういう気持ちになったのか」
「そういう気持ちって?」

まさか転科を決意するほど枢木スザクの実力は素晴らしいっていうこと?
耳元に感じるいつも心地よい声が、まるで予想もつかない言葉を紡いでいくのに、気持ちばかりが焦っていく。
だって間違いじゃないだろ。
お前、一浪するほどデザイン学部に入りたかったっていうのに。




「僕は、どうする気だ」
「え?」
「僕は、まだ、君ナシじゃ授業は受けれないんだぞ。枢木スザクの作品を見るよりも前の話だっていう」
「……ああ、そうだな」
「……」
「……あの、黒崎、」
「転科したら、君はお役御免、というわけか……」


くろさき、--------そう名前を呼ぶ声が、
荒み始めた僕自身に、ひどく耳触りだった。


















自分から柔らかな手を振りほどいて数日が経った。
学内では杖をついて歩く自分を誰がどう見てるかなんて気付かなかったが、
たまたま商店街を歩いてるところをミナミに見つけられ、『あんた早苗ちゃんとはどうしたのよーっ!』と
掴みかかられ、ことの次第を説明するよう、結局数時間拘束され、自分の想いも洗いざらい吐かされることなんていうのも
あったり、した。

ミナミは僕の兄美波と名前が一緒で、自己紹介をきいた時、絶対心の内は明かせない相手だと思った。
だが彼女は感情が表に出やすいぶん、兄と違って、自分の心もリラックスして話すことができて
本当に性別関係ないいい友達ができたと思うことさえあった。

だが彼女は、僕が遠藤のことを手放したくなくて、彼が転科することをよく思わないと打ち明けた途端、
まるで人が変わったように自分の声のトーンを落として、ぽつぽつと、抑揚豊かだった声が
途切れがちになった。

「いつから、早苗ちゃんのことが好きだったの?」
「……君と、会う前から。いや、君が彼女だって紹介された時から」
「……ふうん。なに、あんた、ホモなの」
「違う。バイでもないと思う。ただ、遠藤が好きなんだと思う。前と変わらずずっと一緒に居たいんだと思う。
転科なんてして欲しくないんだと思う。このまま、このまま、いつも通り……ミナミと三人で、」


そうだ。
遠藤と結ばれることよりも、一番大事にしたい関係は……。



「三人で、ずっと」
「それはできないわ」
「どうして」
「だって、あたしは……早苗ちゃんとは、一緒になれないもの」




どういうこと?







瞼のあかない顔を困惑げに顰めれば、向かい側に座っていたミナミの気配が静かに傾く。
そうしたら彼女は自分の身をゆったりと椅子の背に預けて、
それを口にした先のことを思い浮かべたのか、深く嘆息したあと、
重く口を開いた。






「女の子っぽい名前だな、と思わなかった?」
「……さなえ、のことか」
「そう。早苗ちゃんは元々中学卒業までは女の子として生活していた。でも二次性徴とともに
どんどん男の人の体つきになっていった。今じゃ外見だけみれば立派な男よ。でも俗な話、早苗ちゃんの戸籍は
女性で、そして体の中には私と同じ卵巣があるの。つまりインターセクシャル。漫画も出てるから知ってるよね?
早苗ちゃんは私やあんたと違って男でも女でもない、どちらでもない性なのよ」



















それからミナミと喫茶店で暫く話をして、夜の十時くらいに駅前で別れた。
僕は強盗に襲われた時以上の衝撃を受けた思いで歩いていって、いつの間にか大学を目指していた。
場所は学食前のスロープ。校門は居残りで泊まっていく生徒も多いことから開け放たれていた。
僕は杖をつきながら、遠藤と通学することで体に身に付けた感覚をただ頼りにして、
一年くらいしか付き合ったことのない相手の居るだろう場所を思い浮かべた。

遠藤とは色んな話をした。
どうしてミナミと知り合って、付き合うことになったのかも知った。


彼と彼女は高校入学の時に揃って遅刻したことから友達として付き合う仲になり、
ミナミが家庭の事情で家を出て寮暮らしになるのをきっかけに、恋人という関係に納まったらしかった。

だが遠藤視点できく話と、ミナミ視点できく話は大分違う。

第一に最初遠藤のほうは、ミナミを女だと思えなかったらしいのだ。
私服の高校で、寝坊で遅刻した彼女は短パンにルーズソックス、目深に野球帽……という、どこの少年だという格好で
フェンスをよじ登っていたらしい。それを見た遠藤は自分とのギャップに戸惑ったようだった。
彼の体の事情を聞いてそりゃそうだろうなあ、と思ったが、確かに、その年の春まではおしとやかな女子として生活していたんだ。
性別は女であるのに、そんな外見も行動も気にしない女の子が世の中に居るとは思わないだろう。
だが、ミナミを好きになった遠藤の気持ちはよく解った。


彼は嬉しそうに話してくれたのだ。
ミナミは自分の何もかもをを理解してくれた上で、傍にいることを許してくれている、と。
例えばそれは--------……男でも女でもないということと、きっと付き合ったとしても
結婚すらできないということ。それらすべてを覚悟した上で、手もつないでキスもして、同じベッドの上で眠っている。


そんなことが僕にできるだろうか。
そんな風に誰かを心から安心させるような包みこむ愛で、他人を想うことができるんだろうか。


いや、
そんなこと、思い悩んだって仕方ない。だって今さっき知ったばかりなんだ。
遠藤とミナミともこれから先ずっと付き合っていくのなら、越えられないハードルなわけなんてない。

僕は、大丈夫だ。
その僕が大丈夫だってことは、遠藤も大丈夫だ。




僕は走った。暗い人気のない教務課の前を風のように早く駆け走った。
目の前には人の気配なんて微塵も残っていないスロープ。だが確信はあった。
薄く開き始めた瞼の隅に、光の気配を感じる。



ああそう言えば、光のイルミネーション。
酔狂な教授とその研究室のスタッフが毎年恒例でてがける自主制作という名の暇つぶしが
これから展示されるとか、遠藤が言ってたっけ。


僕はそこで立ち止り、自分の目の先にある光景を想像した。
だが瞬時に腕が掴まれて、がくんっと横へ引き戻される。なんだなんだ、と反射で目を開いて振り返ったら、
そこには遠藤の姿があった。息があがっている。杖もつかず一人で走っている自分を見て
とうとう気が狂ったんじゃないかとでも思って、焦って来てくれたのか。


何だ……。



「……ふ」
「何、笑ってんだ」
「いや、初めて見る君の顔は、想像してた以上に男前だなと思って」
「介添えなしに歩けてるんじゃないか、お前」
「そうだね。しかも、目ももう回復してたようだ。……君との生活が本当に心地よかったらしい。
そうか、なんだ、もう、馬鹿だな僕は。こんな近くに居たのに気付かないだなんて」


僕はそうして目の前にした遠藤早苗という人間に両手を伸ばして、
触れそうなほど近くにあった顔をもう一回引き寄せて、溢れだしそうな感謝と感情と喜びを表現するように
額を擦り合わせた。


「転科しよう」
「えっ」
「君が居る居場所が僕の居場所だ。美術学部の……どこにする?やっぱ造形か」
「や、えっ、あ、……そりゃ、したいけど、でも黒崎は----------」



「君と、やっていきたいんだ」





後悔が後を続いてやってくる人生なんてもう味わいたくはない。
頭の痛みも心の痛みも、遠藤と過ごさない数日でどこかへ行ってしまった。
だから、そう、だから……もう、彼がここに居てくれるだけでいいのだ。



僕はそうして初めてみた遠藤の体に頭を寄せて、
暫くずっと、彼の体を抱きしめていた。




どんな手段でもいい。自分の人生がねじ曲がることになったっていい。
だってあの院生だかチューターだかも枢木スザクに言っていたじゃないか。





(それでも俺は、お前とずっと一緒に-----------)




























が、
何と転科した直後、枢木スザクは大学を退官した。
それを聞いたミナミには爆笑されたが、枢木研究室の組以外に入る目標なんて自分にも遠藤にもなかったので
仕方なく暫くは大学に留まったままで、自主制作に励むことにした。

そうして数年経った後、その枢木スザクが別の大学で講師をしているという噂が流れてきて
数年待った思いが報われた気持ちになる。
慌てて、すぐ彼のもとに行こう!と遠藤とともにその大学の名前を調べて---------愕然とした。






女子校だったのだ。





(遠藤はいいかもしれないが、自分は……うーん)