俺が俺のことを嫌いになってから、もう四年が
経った。
それは弟の背中を窓の外へと押した瞬間から始まっていて、滑らかに落下して地面に伏したその姿は、
いまも胸に蘇るイメージだった。
それは自分自身の奥底に対して、呪縛を与える。
育つな、時を数えるな、けして過去を思い出に変えようとするな。
……でもそれは無理な話だった。気づかないうちにも、凝縮するように固めた心の内に入ってくる存在があった。
ずっと一人で泣いていたかったルルーシュの隣に添う人物が現れた。
『僕は、貴方のことは呼びません』
『わかった。ならば俺は准尉と呼ぼう』
手と手をとった第一の理由は、その男がブリタニアが滅ぼした国の嫡子であること。ルルーシュ……皇族全員を憎んでいること。
度々第二皇子である異母兄の下僕である、と皇室で噂されていたから、ルルーシュは誓約するときも、自分の変わりにランスロットの
デヴァイサーを任せるときも、『きっと道具として使える』とどこか人間と思わないことに安心していた。
なのに、それが崩壊してしまったのは本当に些細なきっかけだった。
初めに、シンジュクゲットーへ単身乗り込んだルルーシュを迎えに来てくれた時。
続いて、無謀にも異母兄の下から飛び出した時……なにも言葉はなかったけれど後ろに従ってくれた。
元来鈍く、自分のこともよく解らないルルーシュにも目に見えて解った変化は、その騎士である男が自分から
ルルーシュの内に踏み込んできた時だった。
シャワー室に閉じこもり、目を閉じて耳を塞いで口を引き結んでいた。触れてくれた体温は暖かったけれど、
それが自分を溶かしたわけではない、彼の自分を呼ぶ声だった。
『-----ルルーシュ』
”自分はけして呼ばない”と、その男は言っていた。
なのに名前を呼んで、わざわざ組み敷いたりした。こんな平べったく停滞した身体のどこに欲情したりするのだろう。
(名前を呼ばないって言ったのに……)
呼びたいと思った。
すざく、と。日本の発音はわからないけれどその名で呼びたいと思った。せめて歪ではあるけれど声に乗せて。
もしかしたら最初から気づいていたのかもしれなかった。---------准尉の名前を呼ぶこと。”個”である”特別”と認識すること。
そこからルルーシュの崩壊は始まっていたことに。
「っんなサイズ俺の腰に嵌るわけないだろう!」
きょとん、と猫のような瞳を瞬くヴィレッタへと服を叩きつけ、その顔を見もせずにルルーシュは身体を背けた。
足元に散らばるのはセシルが用意したというティーンズ向けの服の山。なんだか細くて長いものがあるなあ、と興味ありげに
摘んでみたら大層長い靴下で。『それは今はやりのニーソックスというものです』とにこやかなる笑顔でヴィレッタに
答えられた。
何故いま彼女と私室に二人でいるのかについては、正直あまり考えたくない。ルルーシュにだって体調が万全ではなくともやるべき仕事が
あるのだ。それなのに、朝突然……
『あれ?……おいセシル、准尉はどうした。学校は休みって聞いたんだけど』
『スザクくんはもう出かけてしまいましたよ』
『出かけて?なんだ、言ってくれればよかったのに。黙って出てくなんて寂しい奴だな、もう』
『何をおっしゃっているんですか殿下!貴方と待ち合わせする為に出ていってもらったんですよ』
『…………は?』
待ち合わせ?俺と?だってその、准尉は一人で今日出かけていったんじゃないのか。
ルルーシュの思考はそこで止まり、ぐぐんと伸びてきた女史の手からも止まってしまった身体が逃げられることはなかった。
二人してもみあうように逃げたり追ったりしている所に、また突然ヴィレッタが紙袋をたくさん持ってやってきた。ご丁寧に
部屋の鍵までかけて。『この狗め!』と罵ってやったら『権力に従うこと以上の処世術は知りません』とにっこり微笑まれた。
もういい、勝手にしろと大人しくして、女たちに弄ばれていくうちにすっかりと執務服から洋服に着替えさせられてしまって。
鏡をヴィレッタに差し向けられて唖然となった。
セシルは『化粧しなきゃ』といま兵舎まで取りに行っている。ルルーシュはトドメか、と言わんばかりのそれを引きとめようと
思ったのだが、身体は動いてくれなかった。あんまりにも、変身してしまった己の姿に驚いてしまったから。
「自分はお似合いであると思いますが、殿下」
「似合う似合わないの問題じゃないよヴィレッタ。スカートなんて、式典の場以外では履かないのがポリシーなのに……」
「いつもパンツ姿ですものね。でもたまにはいいのではないですか。殿下は総督でありますが女性でもあるのですから」
「あ、ああ……」
『女性』、その単語に一瞬思考を飛ばしかけたが、すんでのところで踏みとどまった。彼女は別に悪くない。悪いのは、
今も昔の約束やしがらみを振り切れていない、ルルーシュの脆弱な精神であった。
指先にレース編みされてある裾を摘んでみる。色あいとしてはベージュを基調とした、繊細なつくりではあるが上品なスカートだ。
『これはどうですか』と先ほど気にしていたニーソックスを差し向けられたが断固として断った。スカートは譲歩するからせめて
タイツにしてくれ、と適当にタンスから持ってきたそれをスカートの下に履く。
そこで、靴はどうしようかなあ……と屈みこむヴィレッタを見つめていた矢先、メイク道具を取りにいったセシルが帰ってきた。
「お待たせいたしました、殿下!」
見るからに、片手に掲げるメイクボックスにはアーティスト顔負けの内容量が込められているように思う。ルルーシュは絶句し、
またまた逃げようと思って懲りずに駆け出してみれば、非力な身体は女史の腕に囲われて椅子に縛り付けられてしまう。
「馬鹿やろー!俺は皇女で此処の総督だぞ!無礼だ!これ以上はいくらセシルでも許せないー!!」
「そんな嘆かわしい……っ!殿下、今日は(多分)後世に残るくらい大切な日で(あるような)ものなのですから、
せめてもベースと口紅くらいは……っ」
「セシル嬢。殿下は顔の造りが大きくあらせられますからマスカラは必要ないかと」
「ああ、そうですね!じゃ少しライン引いて、はっきりした感じに」
「待て待て待て待て!」
当人である自分を無視して進められるその展開に、本気で泣きたくなった。ルルーシュは病み上がりであるのに自由になる両足を
バタつかせて、子供がいやいやをするように頭を左右に振って、政庁内に響き渡るほどの音量で喚き続けた。
普段は休日といっても、ルルーシュに休みはない。
だから、無理な服用を続けて疲弊した身体を休める為にも、今日は執務などはせず大人しくしていてほしかった。そうスザクは
思っていたのだが、朝方彼女の部屋から出てくるところをセシルに捕まって強引に市街へと(何故か)放り出されてまった。
しかも服装はいつもと全然違う格好にされて、着たくもない流行りものを押し付けられてしまう。が、ジーンズやパーカーが
常な自分としては、柄もののパンツなどは気持ち悪くて想像も出来なかった。だから途中で着替えて、ゴミ箱に渡された衣服を
捨ててしまう。
と言うわけで今スザクはトーキョー租界の中心地、シンジュク駅前に立っている。休日だから当然と言えば当然だが、人ごみは凄いし
雑踏は耳鳴りだ。こんな場所に主君と連れ立って何が解るというのか……セシルに言われた言葉が蘇る。
『私殿下と特にスザクくんには悪いことしたと思ってるの。貴方は貴方でどうにか殿下の力になろうと進み寄っていたのに、
勘違いしてその邪魔をするようなこと、してたのよね。ごめんなさい。ロイドさんに聞くまで解らなかったわ』
『はあ』
『で、私考えてみたんだけど』
『はあ』
『殿下もね、女の子のように扱われれば、ちゃんと自覚すると思うの』
『---------え』
なにを、とは聞けなかった。
セシルは驚いたように円くなった翡翠をひたと見つめ返して、廊下の端にまで寄って誰にも聞き取られないように耳元に口を持っていった。
『多分だけど、殿下の”すき”は部下に向けるものとは種類が違うと思うのよね』
『部下……』
『言ったんでしょ?式典の後に”すきですー”って』
『そんな言い方はしてないけど、しましたね。それが?』
『その時ルルーシュ殿下はなんて?』
『…………あぁ』
やっとのことでセシルが自分に言いたいことがわかった。しかしその可能性はゼロに近い。スザクは女史の前に片手を軽く振って答えた。
『確かに”俺も”とは言ってくれましたけど、あれは場が盛り上がったとか……そういう感じでだと思うし、自分と同じものだとは
まるで』
『そこが駄目なのよスザクくん。殿下はあと一押しよ!ちゃんと”女の子”として見てあげれば、きっと振り向いてくれるはず』
「振り向いて、……ねえ」
膝下まである長いコートの前を掻き合せるように腕を組んで、支柱に凭れかかった。吐く息の白さでもう季節が随分と寒くなったことを
知って、皇女の誕生日に騎士となってからあまり時が経っていないことに気づいた。
スザクがセシルから渡された服を脱いでいまトップに着込んでるのは、いつも騎士服の下に合わせている黒のタートルネックで、
コートもズボンも同じ色である。一見遠くから見れば充分黒ずくめの烏な風体で、連れ合う相手としては不釣合いな気がする。
でもどうしてもこの色ではないと落ち着かないと思った。灰色にくすんだ空の下では目立たないとは思うのだが、それでもあの
皇女ならばすぐに見つけてくれるような気もして、目を閉じる。
飛び交う雑音や人の足音だけを耳にしながら、僅かに撥ねる心音を落ち着かせようと深呼吸した。セシルはあと一押しと言っていたが
あのルルーシュと先に進んだところで何があるというのだろう。
全身を預けるように凭れかかってほしいわけではない。行為を強要したのも、それがあったからでは断じてない。
ただ辞めて欲しかったのだ。ロイドに渡された写真のような姿で時を停めていることは。だってその頃の貴方はけして幸せではなかった。
ならば大切にする必要などまるでないだろう。どうして女だと、成長することを認めたりしないんだろう、出来ないんだろう。
思索は長きに渡った。つらつらと考え事をするといつの間にか時は過ぎていて、寄りかかった支柱の天辺にある時計が鳴る音に
肩を跳ねさせた。
「っ、と……。もう昼か」
時計台だとは思わず、のんびりと寛いでしまった。
はてさて、待ち合わせて(いるはずの)ルルーシュは此処へ来るのだろうか。はあ、寒いなあもう、と息を零しながら
空を見上げてみる。そこに、ずっと立ち尽くしていたスザクの背中になにか当たる気配がした。頭がごすんとぶつかったような感触である。
……この高さで当たってしまう身長の人間をスザクは一人しか知らない。ぴた、と動きを止めて首だけで振り返ってみた。
「遅れ、ま、した」
ぎこちない動きで黒髪があげられて紫電が覗く。『はあ』とさえない声が自然と出てしまって、取り繕うように慌てて前を向き直った。
「前見て歩いて来なかったんですか、ちょっと……その、足のそれ、ほつれちゃってますよ」
「へ?」
足のそれ、とはルルーシュが引っつかんできたタイツである。スザクは直視も出来ないから他所を向いて、慌てたように屈んで
腿のあたりを確認する皇女から照れた頬を隠した。まさか、その、
「……スカートなんて反則だろ」
「なんだ、悪いのか」
「いや、悪くないっていうか大丈夫ですけど……、あまり、そういう姿を見ないから」
「ああそう、慣れてないんだ俺。くっそー伝線するとは思わなかった、ちょっと走ってきただけなのに……」
「具合は、もうよろしいんですか?」
なるべく足元を見ないように身長の低い彼女を見下ろした。ルルーシュは寒さになのか走ってきたことになのか上気した頬をあげて
ちゃんと准尉のその姿を目に納める。黒ずくめではあるがかえってスタイルのいいシルエットになった彼を見つめて、口をポカンと
あけた。スザクはというと、スカート姿には当然驚いて、そして落ち着いた色合いだが全体的にシックなジャケットと頭につけた
ふわふわのニット帽に眩暈を覚えた。似合う……似合いすぎている……
「殿下、それ誰に用意してもらったの」
「え?あ、その、セシルとヴィレッタに……。お前こそ、なんだよその格好。俺は言われたとおりの服装で探し回ってたのに」
「あんな若者が喜んできるような衣装は落ち着かないから、嫌だったんです」
普段と格好が違っているからか距離感を掴みにくい。スザクは不器用にそう言い放って、また視線を背けた。ルルーシュは心もとなさそうに
俯いて、伝線したタイツを覗くようにスカートを捲ろうと指を伸ばす。が、他所をみていたスザクがすぐに腕を掴んで押し留めた。
「やめてください。風邪ひくでしょう」
理由は全く違うが、真意を悟られたくはないのでぞんざいに言い放った。
「でも伝線しちゃって」
「買い換えましょう。ここら辺ならば道案内も出来ますし、ほら」
「わっ!馬鹿よせ引っ張るなっ人をものみたいに!」
--------"ちゃんと女の子として扱わないと駄目よ?”
強引に手首をとって引っ張った瞬間、朝方セシルに言われた一言が脳裏を走った。
そうだ。自分はこんな風に扱ってはいけないのだ。
スザクは足を止めて、肩より少し上にある彼女の顔を振り返って、握り直すように優しく掌を自分のそれで包み込んだ。
「え?」
パチパチ、と忙しく目を見開いて、男の顔を覗きこむ。が、スザクは主君の視線の追及から逃れるように歩調を荒く
前に突き進んだ。はやく目に毒であるその足元をどうにかしなくてはならない。
手を繋がれたルルーシュは、変わらないかさついた手の感触を確認するように数度握りこみ、不思議そうに首を傾げながら
その手を握り返した。
「准尉、何か今日おかしいな。どうしたんだ?」
「……別に何も。転んだりしないようにちゃんと足元見ていて下さいね」
「う、うん……でもなんかおかしいな、やっぱり。まるでお前と俺がデートするみたいな」
「そうじゃないんですか、これ」
ぺたぺたぺた、ぴた。
歩調が緩んだかと思えば二人雑踏の中心に立ち止まる。スザクは真下にいるルルーシュを見、ルルーシュは真上で見つめてくるスザクを
ぽかん……と見上げた。
(デ、デート?)
思考は朝方よりも働いてくれなかったりする。徐々に握りしめた掌に熱が篭っていって、とうとう意味を把握したルルーシュの頬は
紅く染まった。
「セシ……ッ、セシルの、言ってたことって、准尉と、の……?」
「そうですよ。”俺”が殿下を”ルルーシュ”として扱う為のお出かけです。今日はね。だから貴方は……」
「?」
真っ赤になった顔で見つめてくる紫電から逸らさずに、繋いだ手を引き寄せて耳に囁きを落としてみた。
その一言が効いたのかビクン、と肩は跳ねてルルーシュはスザクを至近距離で見つめ返してくる。その様が無防備に思えて尚更おかしくて
『じっとしていて冷えてもいかんな』と気を引き締めなおして再度彼女の手を引いて歩き出した。
ルルーシュも俯いたまま大人しくついてくる。きっと脳内で反芻しているのだろう、黙っているということは。
”今日一日、大人しく俺についてきて下さい”
我ながら恥かしい奴だな、と思った。けど他に遣り方を知らない。
素を曝け出すことは苦手であったけど、昨晩は自分がルルーシュの内の部分を曝け出させてしまったのだし、これで互角になったのだから
いいかな、とも思った。
あの弟との軋轢は、皇女の誰にも言わなかった本音であるとも思ったから。
(女とのデートなんてしたこともないけどね)
繋いだ手を行きかう人から守るように引き連れて、ひとり苦笑してみたりする。
後ろにいる皇女がどう思っているかは解らなかったけれど。
「じゅ、准尉は……」
ざわざわとうるさい人ごみに紛れ込むように細い、ルルーシュの声がスザクの足を止めた。
「はい?」
赤面から復活しのだろうか、と振り向こうとしたら『前みてろ馬鹿』と鋭く返されてしまった。何だろうと思って言われるがままに
じっとする。
ルルーシュはスウ、と息を吸って……黒く長いコート姿の背中に囁き返すよう口を開いた。
「俺……が、すきなの?」
「……」
「セシルに言われたからじゃなく、普通に、出かけたいと思って、こうしてる……の、か?」
「……」
「言ってよ、准尉」
小さく、たどたどしい問い掛けに胸の内に溜まる何かがあった。これは何なんだろう?
英国を出てから幾度、皇女にすきだと言ったかしれない。
そんなに回数は多くないかもしれないが、要所要所でスザクはルルーシュに対して言葉にしてきた。それに彼女は頷いてくれていた
ものだから、通じていると思っていた。それなのに、……そうくるんですか。
「信用ないかな、”僕”って」
「……准尉」
顔をあげた隙をついて再度、言ってやろうと思った。往来のど真ん中で言うのもどうかと思うが、自分の今までとってきた態度も
問題はあるかと思ってその辺りは妥協することにする。きっといまスザクも赤面してしまっているだろうな、と思いつつ、
綺麗な色彩の眼差しを向けてくる皇女へ、言葉を音にした。
「すきだよ、ルルーシュ」
ニット帽が上を向く。
零れんばかりに開いた双眸が、灰色の空にも輝いてみえた。
「何度でも言う。……ルルーシュが」
「わ、わかった!もういい、わかったからっ……」
きゅ、と力をぎりぎりと込めて握られて、繋いだ手はよりいっそう密着した。
それに気をよくしてスザクは笑う。イタズラが成功した子供のようにくすくすと笑って、また先を急ぐように歩いて行く。
ルルーシュは引き摺られないように歩調を一所懸命合わして、何度もそのセリフを反芻するように口の中に転がしてみた。
……自分もそう男に告げられるように。
今も胸に木霊する、