「ひとつ約束事を作ろう」
ホビー・バランス
気づけば右手の肘に近い辺りに、血痕があった。それを『不愉快だな』と真っ先に受け止めて右手の中の武器ごと薙ぎ払う。
ビシャリ……、足元の水溜りが跳ねて顎下までとんできた。どこかそれを冷静に受け止めていた自分は頭の中でも冷静に
今、スザクが、無心でやっていたことを反芻して、何ともないように日常に帰ろうとしていることにも気づき、愕然とした。
”ぶんかい”に慣れた。
暫くずっと雨の日が続いて、その後すぐに晴れてくれたが何と因果なことにか、風が強く吹いていた。吹き続けた風圧は
自分の生態能力では防護しきれない花粉を飛ばしてきて、……目も鼻も赤く腫らしたスザクはすんすんと小さく啜りながら
よく土手道を歩くようになった。
王国の中に土手道なんてそう多くはないが、何故だか第二皇子の側近である銀髪の男は家庭菜園が趣味で、日本に居た頃はよく
外で遊んでいたと語るスザクを『男の約束だ』と言って、秘密の場所であろう王国の裏側にある花壇へと連れてきてくれていた。
なのでスザクは春の間はいつも裏側のぬかるんだ土を歩くようになる。それは、風で舞う花粉が王国の大理石の床ではただ転がるばかりで、
その中で生きていかなくてはいけない間は、なるべくその風に包まれた花粉ごと吸い込んでくれる土の傍で快適に居たかった。
ロイドもそれを解っているのか、市民権など元よりないシュナイゼルの囲われもの、捕虜よりも悪い待遇のスザクが少しでも
王国に居やすいようにと、配慮してくれていた。いつだったかシュナイゼルと締結した約束ごとの為に仕方なくスザクが彼の頼みごとを
人気のない場所で消化していた時、日に反射して顔の見えない鋭い視線を飛ばす彼と出会った。
『何をしてるの』と聞かれたから、腕をあげて、渡されたものでこいつを両断していた、と毛の生えた温もりを足で示す。ロイドはそれを
『ばっちいなあ』と一言のもとに下し、『そんなことやめちゃいなさいよ』とスザクの濡れた顔をハンカチで拭った。この時から
彼は自分に優しかったのだ。
とてとて、と下履きを与えられてないスザクの足音は大理石の床に響かない。天井は全くといっていいほど消失点の見えない吹き抜けで、
高々とまだ少年のスザクを見下ろしていた。英国の中で、城内に入るのは初めてだ。それを許したのは思ってもないことにシュナイゼルで
『またいつもの”ぶんかい”か』とロイドの背中に隠れていたのだが、今回だけは違うらしい。『私の後について、決して私から
離れずに皇室まで付いてきなさい』それだけを言われた。
うさぎ、リス、ねこ、……決まってシュナイゼルが白いビニール袋に入れてくるのは小動物ばかりだった。ある時、長い間牢に入れられていた
自分を男は強引に引っ張り出し、半泣きになりながら日の下に出たくないという自分を無視して、『まずはあれだ』と鳶を撃ち落させた。
『私のを貸してやろう』なんて親切心を出して、宝石に細工されていた高価な銃を細い手に持ち照準を合わせた時はもう、
スザクの後ろに逃げ道は無かった。にこやかに微笑む第二皇子しか居なかった。
無事に芝生の上に茶色の鳶は落ち、スザクは小刻みに震えながら、皇子に対して謝罪した。ごめんなさい、どうしてこんなこと、
頼まれるのかわかりませんが、自分には無理です、と。--------------後ろにあるのは逃げ道ではなく十三階段だと思ったが、
たとえ死への恐怖に逆らってでも動物殺しはしたくなかった。けれど、やはりというか。彼がそんなことを許してくれるわけはなく、
頼りない肩に白い手袋をポンと置いて『約束事を作ろう』と言った。顔を上げて驚いたように翡翠を開いた。シュナイゼルが
笑っていたのだ。
「っ……ふ、ぅ……、う、う……っ」
真白い柱が続く道の途中、えぐえぐとみっともなく泣く一人の人物を目撃した。両手には今朝方スザクが、水溜りを舐めていたところを
斧で解体した子犬の骸があった。白いワンピースを着て、それよりもなお白い肌に包まれた頬を、真紅のように染めさせている。
濡れていると思ったのは涙で、スザクの顎へと跳ね返ってきた水まじりの血液ではなかった。その人物は目の前にいるロイドに
子犬の骸を向けて『どうして』と聞いていた。『運命ですよ』と学生服の彼は答える。向かいに立ちそう無碍に伝えてくるロイドへ
苦悶の眼差しを向けたが、不意に、その人物がじっと見つめていたスザクへと視線を向けてきた。
泣き腫らした、手の中の温もりが死んだのは初めてではないという、そんな怨嗟の思いを込めた、目で。
(……この国の皇女だ)
確か、初めて英国に来た時に、自分の襟首を掴んだシュナイゼルを出迎える為に、表に出ていたと思う。
腰にまで届くかというほどの黒髪がやけに印象的で、横に並ぶ兄弟たちが霞んで見えた。次にスザクがうわあ、と素直に綺麗だと思った
のは、その瞳の特異なまでの紫電の色だった。凍りつくような冷たさを感じる。
けれどいま彼女がぼろぼろに潤ませて睨んできているのは、ただの少女のもつものだった。高貴でもない、威厳でもない、ただ
愛犬が亡くなって哀しむ女の子の姿をしていた。はじめてスザクはこの時、少女の眼差しを見て罪悪感に支配されたのだ。
ぶんかい…………。
それは生き物の尊厳自体を脅かす、極刑ものの悪行。
それを何故シュナイゼルは毎度させるのか、スザクにはどうしても解らなかった。けれど、午後の昼間に少女に呼び止められていた
ロイドだけは納得がついていたことだったらしく、途方もない目で花壇を見つめていたスザクに『閣下は壊れているんだよ』と
口元に煙を咥えながら呟いた。
「人間ってねえ、何かひとつに没頭しないとバランスとれない動物なの」
「バランス?」
「支柱といってもいい。大体が二本足で生きていけるんだけどね、時には気持ちが安定しなくって自分の両手に爆弾のごとく不満を
溜め込んでしまう生き物なんだ。それを発動させない為に安定剤として、支柱は存在する。僕にもあるし閣下にもある、
ルルーシュ殿下にも……。君にも、勿論ね」
「僕に」
「そう。君にだって、何かあるだろう?」
(何か-------------)
”人間”として居させてくれる、何か。
「でんか」
起き抜けに吐き出す声は頼りない。自分は看病と見舞いと、昇進した証として騎士証を渡すために主君の部屋へとやってきたのだが、
どういう経緯でか今はベッドの上でルルーシュの身体を抱いている。抱いているといっても、しっかりと着込んだパジャマの上から
腰を支えるように横になってくっ付いているだけだった。別にやましい気持ちがあるわけではないが、夜も遅く、朝も近づいてくる
時間、彼女はしっかり休めているかと不安になって声を掛けてみたのだ。自分はもう、また、名前を呼べなくなってしまったから、
『殿下』とその通称だけ。
けれど彼女はたとえそれだけでも、自分の声だと認識してくれるらしく、
「ああ……」
その小作りな口で目を閉じたまま応じてくれた。嬉しくなって咽喉で笑いながら腕の力を強くする。そうするとルルーシュの背中が
僅かにだがピクリと跳ねた。
「……くっ付き過ぎ禁止」
掠れた声で抵抗を示してみても対した効力はないと思うのだが、肩口に埋めたスザクの頭を、前から腕を伸ばしてぐしゃぐしゃと
掻き乱した。『残念だな』と低く洩らして、少しだけ背中との間に空間を作る。『腹が痛くて眠れないから付き添え』と言ったのは
彼女のほうなのに、と溜め息を洩らした。
「殿下」
もう一度だけ呼びかけたその脳裏には、あの時の光景が蘇ってきていた。初めてシュナイゼルに手を引かれて、王国の中へと入った
時。
ルルーシュが泣いていた日。ロイドがその子犬を見て、シュナイゼルとスザクがやっていることの意味を理解した日。
スザクがルルーシュの姿をルルーシュだと認めた、大事な日。
シュナイゼルはルルーシュのものを壊すことで愛を確認していた。
ビニール袋の中では確実に息づいている命。いつからスザクがそれを拒否し出したのか、ロイドがスザクの面倒までも見てくれるように
なったのか、今はもう思い出せない。
確実に言えることはひとつ、もうスザクは、彼と交わした約束を覚えてないということだった。