彼には思い出せない過去があるのです。
……一定の空白期間、ぽっかりと穴が空いた袋のような。
彼と過ごした人ならきっと誰だって覚えてる思い出が、残念ながら彼には残っていないのです。
砂のように破けたそこから零れ落ちていってしまっているから。



そうです。『変だね』と首を傾げる貴方、
どうかお願いですから思い出させてあげて下さいな。


------------誰もそれをしないと言うのなら、仕方がない、私がしてあげましょう。
でもどうかそんな私の姿を見て、彼に対して膝を折ったなんて思わないで下さい。


この気持ちは同情に近いです。
自分を救いたいから、彼に残酷な過去を思い出してもらうのです。


ほんとうにごめんなさい。優しい貴方、私を昔守ってくれた貴方。
実は、貴方こそが私の敵だったのです。





























しずく

























一度別れてから二度と会うことはなかった元・幼馴染、枢木スザク。
順調に年をとっていけばもう二十三か。その彼がラフな格好をして人波を避けながら地下街を渡っている。


「……」
すれ違った私に気付かないまま、横をすり抜けていった枢木スザク。
彼が、



笑顔で誰かと話す姿なんて想像したこともなかった。



小・中……と学校は同じクラスであったけれど、学校では彼はいつだって無口で、常に俯きがちに下を見ていて、
相手の顔を直視して何か言う、-----------なんてことは積極的にはしないタイプだった。

そう思っていた自分にとっては、軽いショックを覚えた。


(誰だろ?あの子)



黒髪で、痩せた肩に白いショートバックを背負って、枢木スザクと並んで歩いている男の子。
パッと見、まだ高校生くらいに見える背丈はスザクと並ぶと余計華奢だった。
「なあ、これからさ……」
年齢的に考えると十八か、その辺りか。はにかむように翡翠を見上げる瞳は、サイドに流された前髪で少し隠れていたが
充分枢木スザクのことをいとおしんでいる人間のもののように思えた。
まるで子が親に催促するような、けど、そんな無理を言っても拒絶されないと知っている手で戸惑うことなく
あの枢木スザクの手を握っている。
彼も、そんな接触を拒むことなく、当然のようにそれを受け入れ、握り返した。
こんな美少年に微笑まれて嬉しくないわけがない、そんな風に思っていることがバレバレな顕著に伺い知れる瞳をして。
また、駅の構内で行きかう人波にかき消されてしまわないようにと、背伸びをしてきた黒髪に耳を寄せて
またクスクスと笑う。



あんな、枢木スザクは、知らない。

















「なあ、これからさ」
雑踏から中々抜け出すことができず、まだまだ先までありそうな地下街にルルーシュは痺れを切らして、
稽古帰りに自宅までスザクに送ってもらう途中で普段ならそうそうしないおねだり≠口にしてみた。
「お前のご飯が食べたい」
「え?僕の料理?」
「そう。俺読み合わせの頃からずっと腹ぺこでさ……稽古場も今日は学校の校舎じゃなくて公民館のほうだったし、
『こんなに静かだったら腹でも鳴らせばすぐにバレるんじゃないか』ってすごいヒヤヒヤしてたんだ」
読み合わせというのは、まだ完成されてない一場面だけ抜きとった仮刷りの台本を配役を場面ごとに変えて
セリフだけ口に出す稽古である。
座っていた位置も丁度円陣を描いたど真ん中で。
おいおい、どうして昼間に電車の中ででも何か食ってこなかったんだ……と、自分の阿呆さに半泣きだった。
「俺、もうあの時死ぬかと思った」
「それはどっちの意味で?空腹?それともお腹が鳴った時のみんなの反応?」
「どっちも」
音が雑音のせいでうまく聞きとれないから、完全に顔をくっ付き合わせた状態で、人混みの中言葉を交わす。
スザクは真面目な顔して真剣にその時の状況を伝えるルルーシュに笑いを堪え切れないのか、クスクスと肩を揺らして
握った手にまた力をこめ、『いいよ』と近づいたその耳に囁いた。
「バイトもないし」
「まじで?やった!やったやったやったやった!俺、予備校の予習がんばる!スザクが作ってくれてる間」
喜色満面。絡めていた手を離さないまま両手をバンザイの形にして
ルルーシュはその場でぴょんぴょんととび跳ねるほど嬉しさをアピールした。

だってそうだ。スザクが自分からルルーシュを送る以外で誘いにのってくることなんて、全く無い。
彼はいつだってそういうことに関しては消極的で、ルルーシュの健康や過ごしやすさを第一に考える。残念なことに
スザクにとってルルーシュがスザクと過ごしたいと思うことは、スザクにとっての喜びに成りえないのだ。


(自分が部屋にあがると疲れるとか思ってるんだから……)


硬質なまでに頑としてゆずらないルルーシュ至上主義≠ノは頭があがらない。
だが、今日ぐらいはいいというものだ。今日こそは。今日だからこそ。


「あのな。実は予備校の友達から借りてたビデオがあって、……ブルーレイレコーダーがないってことで、わざわざ
ビデオにダビングしてもらったものなんだけど」
「うん」
「スザク、観たいって言ってただろ?あの、え〜と、ナントカいう人の舞台!あれがブルーレイで先行発売されたんだよ。
でも俺の部屋に専用のデッキってないからさ。無理に頼みこんで」
「え」
ナントカ≠ニいう通称で意味が通じたのか、通じなかったのかはともかくとして。
スザクは一瞬びっくりした顔をしたが、すぐにルルーシュの言ったことを理解して、破顔した。
勿論、先ほど彼に向けていた穏やかなものとは種類の違うものだ。
「泉鏡花の、海神別荘!」
「そ、そうそうそれ!お前観たいって言ってただろ」
「う、うん……!ずっと興味があった脚本で、僕の知ってる劇団が公演したって最近知ったんだ。でも舞台で観ることはできなかったから……
嬉しいな、嬉しいよルルーシュ。わざわざ友達に言ってくれてありがとう」
「いえいえ」
はにかんだスザクの笑顔が可愛い。
こんな喜んだ顔見たのはこれまでの付き合いで初めてかもしれない。スザクの微笑む顔に『あんまり気にしないでくれ』と言いつつ
内心『一生俺がこんなことまでしてビデオを用意したこと、忘れるんじゃないぞ』と念を送っていた。
「じゃ、スザクの料理を食べながら舞台鑑賞ということで……いいか?」
「うん。いいよ」
楽しみ、と告げる彼に、手をまた握り返しながら『俺こそ楽しみだ』と稽古明けの疲れが吹っ飛ぶほどの微笑みで
ルルーシュも破顔した。


















スザクの指の綺麗さは異常だ。
普通、舞台なんて任されていたらこんな傷のない指にはならない。特別何か手入れをしているわけでもないし、
特に綺麗にするために気をつけているような素振りもない。
軍手は勿論はめて作業しているけれど……だからって、『危ないから』と扇に言われて
大道具には滅多に関わらないルルーシュよりも指は長くて、きめが細かくて、包丁なんて持つ時の筋の浮き具合は
思わず目を離せないくらい息をのむ、何と言うか、……色気がある。
「どうしたの」
「あ」
台所に二人立って『じゃあ今日は何にしようかなあ』なんて言って買ってきた材料をビニール袋からごそごそと
漁っている最中だった。当然ながら一人暮らしはしていても自炊なんて率先的にやったことはないルルーシュは
自宅にスザクを招いても食べるのみの側である。スザクもオネダリをされた時点で自分が台所に立つということは知っていた。
なので中々テーブルへと戻らないルルーシュに首を傾げる。
しかしそんな目で見つめられてもルルーシュのほうはスザクの手に見惚れてたなんてどう口にしていいものか解らなくて。
----------挙動不審を絵に描いたとはこのことを言うのだな、と我ながら思う不審な動きで
ぴったりと寄り添うように立っていた水道のシンクから、そっと身を離した。
「ごめん。何か今日、テンション高くて」
「あ、そうなの?いいよ、座って待っててくれて」
「うん、ありがとう。じゃあデッキでも用意して……」
待ってるよ、と告げた後、再びビニール袋へと注意を戻したスザクを名残おしそうに見つめて、
普段ビデオを見返したりしないからずっと奥にしまっていたデッキを探すため、引っ越ししてからまだ開封していないダンボールを
カーテンで仕切った物置から引きずりだした。

そう、最近、また引っ越したのだ。


高校一年の頃から一人暮らしをはじめたルルーシュは、最初に住んだそのアパートを先月の中頃に解約した。
そして扇夫妻の自宅からあまり距離のないマンションに居を移した。約四年間も住んだ愛着のある部屋から出た理由は
たった一つである。


「そういえばルルーシュ」
「んー?」

引っ越し作業には劇団の面子が総出で手伝いに来てくれたが、当然陣頭指揮をとったのは、その日のために一日休みをとったスザクだった。
そのスザクが何でもかんでも整理せずにダンボールへ詰めるルルーシュを見て、『こんなんじゃ荷を開ける時困っちゃうよ』と
注意したりしたのだが、ルルーシュはルルーシュで荷造り自体が面倒くさいという意識が先行して『別にいいんじゃないか』と
適当に大きさだけ揃えて箱詰めしていったのだ。
……あんな風に面倒くさがらなければどれだけデッキを取り出すのが楽だっただろうか。今になってスザクの注意した意味が解ってくる。
箱詰めする時になぜ整理して荷造りをしていかなかったのか?ハンドライトでもなければ足元すらよく見えない物置に頭を突っ込んで
ルルーシュは過去の自分自身を呪いたくなった。
「あの扇さんが言ってたの、受けるの?」
「えっ、何?受ける?」
物置からだと台所から飛ばす声がよく聞こえない。
それに今野菜でも洗っているのか、やたら水道の音が邪魔をする。
しかも中々箱から救出できないデッキにも苛立ちがつのって、聞き返す声に怒気がこもってしまった。
「悪いんだけどちょっと待ってくれないか。手が、ちょっ、箱に突っ込んだ手がものに挟まって、抜けない……」
「ホラーだったらそこで白い手に掴まれて黄泉の国に引きずりおろされてるね。どうしたの?デッキ見つからないの?」
「う〜ん……。ちょっと待って。とりあえず出る」
暗いところも狭いところもあまり得意なほうではない。よろよろと這いつくばったままで後退し、
新鮮な酸素を吸いたかったものだから早足でリビングへと戻っていった。
「さいあくだ。ていうか、何で俺、ダンボールに名前とか書いておかなかったんだろう」
この太郎くんは主に家電ものが入ってますよ、とか。頭を突っ込んで捜索していたせいでボッサボサに乱れた頭をして
途方もなく床に項垂れた。
そんなルルーシュを、背中を向けていても想像ができて笑えるのか、穏やかな声で野菜の水気を切りながら
ルルーシュをたしなめた。
「まあ、あの時は突然決まった引っ越しだったからね。慣れてない作業だったろうし仕方ないよ。デッキは後で僕も探して……」
「いや、ちょっと休憩したらまた戻って探すよ。料理だって作る時間あるんだし」
胸の前でぶんぶんと手を振って、振りむく動きを制す。
「そうだ。さっき潜ってる間何か言わなかったか?俺よく聞き取れなくて」
「……ああ、別に大したことじゃなかったんだけど、ほら、次の舞台の……客演で君が行く、さ」
「扇さんをツテにして俺に誘いかけてきたやつ?」
「うん、それ」
ルルーシュもスザクも世話になっている団長・扇の自称親友であるらしいある若手の演出家が、
引っ越ししてからまだ日も経ってないルルーシュに出演の依頼を申し出てきたのだ。
扇が電話でその話を受け取った隣にスザクも居たから、話の内容は大体頭に入ってるつもりだった。
けれどその誘い自体があやふやなもので、いつもはそんなに口を出したりはしないが今回ばかりは気になる所があるのか
スザクは一瞬迷う素振りを見せたが、すぐまた顔をあげて(しかし背中は向けたまま)後ろにいるルルーシュへ向かって
過保護も承知の上で切りだした。
「あの、女優さんを男役に。そして君を女役に、っていう配役でやるやつさ」
「……ああ」
「男としてのプライドがどうとかっていうより、何か変な話だよね。そう思わない?君の演技が好きなら
役の性別をわざわざ指定してこないだろうし……」
「まあ、俺痩せ型だしなぁ」
「でもちょっと失礼だよ」
僕はそういうの好きじゃない、と言って一度手の中のレタスをボールに移す。
そのスザクの背中を、床から立ち上がったルルーシュは黙って見つめ返した。
スザクはルルーシュのその視線に気づかないまま喋り続ける。
「僕は君のいいところ、ちゃんと知ってるつもりさ。それでそんな風に言う演出が居るんならそいつは僕とは別のところを
見ていることになる」
「別のところ……?」
「見た目、とか。そんな気がして……君はそうは思わない?」
「わるい。そこまで深く考えてはなかった」
「そう」
でも自分のことなんだし、貞操観念とかそういうのはしっかり持っといたほうがいいよ。
スザクの淡々とした言葉にこくりと黙って頷いた。しかし、彼は多分自分が言った言葉をよく理解していない。
『僕とは違うところを見ている』---------なんて、まるで自分は外見でルルーシュを判断してないと
言ってるようなものじゃないか。
(この天然め……)
知らず顔があかくなっているのを、彼は多分野菜に集中していて気付かないだろう。


「それで」
「うん?」
「どうするの。性別逆転のダブル主演の舞台、受けるの?」
「あーー……」


扇が主宰する劇団ではない舞台、というのがネックなのか……スザクの言葉が意外なほど重い。
でもここで扇から少しでも自立しておかないと、引っ越しを切りだした件についてもルルーシュは自分に自信が持てなくなる。
本当なら引っ越しもせずに前のアパートのままでよかったのだ。稽古場から遠いとか、家賃とか、生活面での問題があって
引っ越すことを決めたわけじゃない。それも多忙を極めるスザクに手伝わせてまで……。
(本当なら、全部何もかも黙ってするつもりだったんだ)
荷造りすらまともに出来ない不器用さで何を言うかなものだが、ルルーシュにとっては出演依頼を受けるのも
引っ越しを決めるのも、扇やスザクからの自立への第一歩だった。
スザクはきっと深夜でもバイトを休んでまでルルーシュが病院へ運ばれたりしたら駆けつけてくれるだろう。
扇なんてルルーシュが倒れでもしたら、すぐにスザクへ連絡する、迷うことなく。--------それが、最近の小さな悩みの種だったのだ。



(全く、二十歳にもなった男が何を言うかな感じだけどな……)


親代わりだからって、何でも任したくない、というのと同じように、
何でも許せる好きな相手だからって……自分のことを全部話せられる、わけでもないのだ。


ルルーシュの心境は、今正にそんな感じなのである。


(好きな時だけ一緒に居たいなんていうのはわがままなのかもしれないけど)
やっぱり適度な距離感をあけておきたい。依存したくはない。そんな強さを持っていたい。


だから自分を心配してくれてるのは嬉しいけれど、それがルルーシュにとって甘えにもなってしまってることを自覚してほしい。
それをうまく言葉にして伝えられたらどれだけ楽なんだろうか、……と思うけど、
スザクは時にものすごく自分を後回しにしてルルーシュの為に動いてくれる時があるから、
そんな彼に対して、率直に『放任しろ』と言うのはそんな気持ちを無視するようで、とてもじゃないが出来そうにない。





(そう、今みたいに)


さりげなく嬉しいことを言ってくれたりする時もあるから。
全部、全部、預けてしまいたくなる。



(そんなことしてしまったらもうその瞬間から、頭の中も体のほうも、こいつで一杯になるって解ってるのに)



「……出演は、マネージャー代わりの千草さんが最終的に決めることになるんじゃ、ないのかな」
「ああ、そっか」
「でもお前が止せって言うなら、千草さんには断ってもらうようにする」
「え」
「今はその出演以外にも仕事抱えてるし」




そうだ。
引っ越した原因の大部分はそれだ。ルルーシュがその仕事を受けたため、だったのだ。


ルルーシュの一日のサイクルは昼間予備校に通うことと、夜は劇団の稽古に出ることの大部分で回っている。
扇劇団を主な活動場所と定めているルルーシュにとっては、その仕事も出演の依頼も
いまのスケジュールの状態では、中々うまく組みこめないものだ。

ではその出演の依頼を受ける前にオファーがきた仕事というのは、何だというのか。

……一応ルルーシュの独断で請け負った仕事なのだが、スザクに最初言った時は、蛇に睨まれた蛙のような顔をされた。
意外を通り越して戦慄を覚えた感じの表情だったのだ。

(俺にとっては勝手にオカマにされる舞台よりはやりがいあると思うんだけどな……)







某広告会社のポスターモデル。
オーディションが複数回あるとかいう超難関の仕事で、オーディションの誘い自体企業からもらえなかったプロダクションもあるとか。
その企業に何故かモデル業界では無名のルルーシュが誘いをかけられた。それも広告会社そのものから。
ならばオーディションも受ける必要がないではないか、と思うかもしれないが、しかし大手というのは
企業戦略のひとつとして、時に規模だけ広くしてオーディションをし、企業そのものの名前を売り出したりするものだ。
いくらルルーシュに白羽の矢を立てたとしても、オーディションはオーディションとして、敢行する必要がある。


だが、一度会社のほうを訪ねていってオーディションの内容を担当者から直接聞くと、
意外なことに(ちょっと失礼な話だが)中々劇団の稽古とは両立のしづらい忙しそうなスケジュールだった。

けどルルーシュにとっては同年代と短期間で競いあえるいい機会だった。
役者であることを続けるには、ネームバリューは絶対である。その意味を考えてこその受けたオファーだ。




だからその為に引っ越しをしたようなものなのだし、出来れば、自分としてはオカマの舞台より
ポスターモデルのほうを優先したい……。



でも。


(スザクも扇さんも、どっちの仕事に対しても乗り気じゃないんだよな)



難しそうに口を曲げて、気付けばまた黙々とスザクは野菜を洗っている。
黒コショウに半分だけ切り取られたレモンが転がってるところを見るに、今日の夕飯はサラダ系かパスタのどっちかだろうと
推測できた。
腹も減るし、こんな背中越しの会話は久しぶりの逢瀬としては虚しいものだから、そろそろ切りあげていちゃいちゃしたい。


だけどスザクは不服そうだ。暫くしても黙ったままだから、多分きっと頭の中でもやもやと勝手に悪い方向へと考えている。
どうして扇のようにそこまで過保護になるのか解らないが、……でも何も無言になって背中から変なオーラを
出すことはないんじゃないか?





別に何も心配させる気持ちがあって、仕事と仕事の間をふらふらとしているわけではない。
自分にはどんな仕事が必要か。どんなことをして成長していったらいいか。誰よりも考えているのはやはり自分自身だった。
だから……。








「俺さ」
「うん」
野菜をすすぐ水道の蛇口を、後ろからそっと閉めた。
今はじめてルルーシュの存在に気付いたというようにスザクが振りむく。その、少し虚をつかれた顔に視線を合わせて
水に濡れて芯まで冷え切った手に、上から自分のものを重ねた。
「ポスターモデル。やっぱそっちのほうが感心あるかも。舞台のほうはさ、やっぱ俺は扇さんの劇団の人間だし、
いくら依頼があるからって別の演出や舞台、稽古場でやるのは、……不安だ」
「だよね」
もっともだ、と言わんばかりに頷かれる。
でもな、とルルーシュは言葉尻を切らずに後を続けた。
「俺、今までのように予備校も通いながら、依頼されたほうの舞台もモデルのオーディションもどっちもやろうと思う。
ちゃんとした報酬だって出るんだし」
「-------------えっ?」
「俺、どっちもやる。どっちもやるこしにした」
再び驚いた彼の勢いに流されてしまわないように、と、珍しく強く言い切るよう口にする。
自分の決した判断に頷いて、スザクを見上げる目をルルーシュは真っ直ぐに細めた。クリアになった視界で手を触れながら向かうスザクは
ひどく動揺した顔をしている。どっちかを選ぶかに思っていた選択をどちらもとってしまったのだから……
意外を通り越して呆れのほうがくるかもしれない。しかし、


「無謀とかって怒るなよ」
「怒りはしないけど、……不安だよ」

撮影と稽古日が重なったらどうするのさ、とひどく現実的なことを指摘される。
まあその時はその時だよな、と思うから、『そんなのは悩む理由にはならないよ』とニコ、と笑って
重ねていた濡れた手のひらからそっと指を離した。

「前にも言ったろ?今年の受験で大学に合格しなかったら、進学も舞台もやめるって」
「……」
「予備校に通いながらの今の状態が、役者をやるのにはすごく向いてるんだ。それなのに多忙とか理由で
どっちも両立できないことになんてならないよ」
「いいの?ほんとに」
「大丈夫だって」

もしかしたら役者として今が華なのかもしれないのだから。

なんておどけたように口にしてみる。その発言にこそスザクは目尻を吊り上げて、剣呑な眼差しで何か言おうと
見つめてきた。しかしそれから逃げるように、またデッキを探すため奥へはける。背中に刺さるような翡翠の視線が
追ってきてるのを痛いほど感じた。でもこれでいいのだ。自分は役者としても人としても自立できるのだということを
スザクにも扇にも解ってもらいたいのだから。



「そんなに俺が心配ならさ」
「?」
デッキがあるだろう箪笥の中にまたしゃがんで這っていきながら、聞こえなくてもいいと思った呟きだが
一応腹から息をすって声を張ってみた。--------心配で心配でバイトも手につかないような程だったら、







「携帯」
「……あ」
「鳴らして。稽古がなくて会えない時は、呼んでくれたら、俺、すぐバイト先まで行くから」



水道の音もやんでルルーシュの部屋には床の軋む音とダンボールを漁る音しか存在しなかった。
密やかな息つかいしかしない静けさが、胸をしめつけるような、苦しい自分の動揺を現してるようでもあったけど。




言ってみた。
誕生日にくれたメールのような、滅多に現さない彼の気持ちを、機械を通したものでもいいから得たいと思ったから。








「スザクが俺のこと考えてくれてるんだなって、あの時みたいに思うんだ。多分それさえあれば
全然オーディションなんて、……女の格好なんて、苦にならない。ほんとだよ」

























ようやく発掘したデッキを液晶テレビにケーブルで繋いで、スザクの用意した手料理を口にしながら
その日は深夜近くまで鑑賞していた。
だがそれでもベッドシーツに二人ぶんの皺ができることは無い。ただソファに並んで座って、食事が終わったら適度に
台所とテーブルを片づけて、毛布をかぶって就寝する。ルルーシュの頭はスザクの膝に。スザクの頭はソファの肘かけに。

「……」


ん、と膝から洩れた息にスザクは目を開けた。電気も消した明りのない場所から
ごそごそと模索するように音のした所在を探す。黒髪がさら、と手を掠めて、自分の腹の奥底に沈めた何かがゾクリと粟立った。
ルルーシュは毛布の中で膝を胸にまでつけて、動物の赤ん坊のように丸まって熟睡している。
二十歳を迎えた青年にこうまで過保護でいいものか自分ですら不安になるスザクだったが、こんな無防備な様子を見てしまったら
とてもじゃないが自分の目の届かないところで頑張る姿なんて悠長に想像できない。頑張ってほしくない、それが本音だ。




でも。



『苦にならない。ほんとだよ』



携帯のメールも電話も、待ち合わせの時以外に使うことなんて滅多になかった。扇と電話で連絡するほうが
頻度が高いほうだった。
だがこれからルルーシュが劇団の稽古もして、オーディションも客演の舞台も受けて、変わらず予備校のほうも続けると
いうのだったら、……少しその放任ぷりも改善しなくてはならなかった。



干渉という言葉が一番嫌いだったスザク。
いくらルルーシュが手を繋ぐことも唇以外に触れることも望むからって、自分が一番恐れ嫌うものを向けることは
できないと思っていた。つい、今しがたまで。



だがその考えを改める必要がある。



膝に眠るこの温もりがまだ手の届くところにある内に、自分のものだと証明するシルシをつけておきたい。
------------そんな捕食者のような真似、今までだれにも固執できなかった自分にできるのだろうか?


できるのだろうか。






(そもそもDVDが観たいなんてただの口実だった。ルルーシュと過ごす時間が欲しかった。そろそろもうほんとに
同年代だと嘘をつくことも限界かもしれない)