お母さん、いってきまーす!の元気な掛け声とともに、スザクは意識が浮上した。
……まるで深海へと潜り込んでいたままの意識を、無理やり突っ込んできた何物かの手により
水面の上へ引き出されたような感覚だった。
でもそれが不快じゃなかったのは、多分……。
「おはよう」
毎朝自分よりも早く起きて身支度をし、たまに予備校は休んで朝から稽古場の掃除などしているから
スザクなんかよりよっぽど寝起きはいいルルーシュが、……昨夜の痕跡が見てとれる、
至るところに朱を滲ませた素肌のままで隣に寝転がっていた。
「……おは、よう」
「珍しいな。まだ寝ぼけたような顔して」
「だって、昨日からずっと動きっぱなしで、ろくに寝てなかったんだもの」
「まあ今日はゆっくりしてろって」
普段そう見せない自分の幼い様子に苦笑を堪えきれないのか、
まだ自分だって眠そうにしているのにくすくすと笑っていた。
けれど、不意に紫電が天井のほうを向いて、ゆっくりと上体を起こす。壁にたてかけた時計の針が
そろそろ八時のところに向こうとしていた。
「そろそろ着替えないと」
「ああ……今日が本番だからな」
「がんばってね」
「がんばってね、なんて今までで言ってくれたことあったか?」
「今回は特別だよ。昨日も言ったろ。……扇さんのところとはやっぱり勝手が違っただろうし」
畳から背を起こしたルルーシュとは反対に、まだ横たえたまま喋るスザクの口調は
半分以上寝ぼけていた。起き上がったルルーシュの白い肌を見る瞳も、うっすらとしている。
しかし、引き止めるように伸ばした手でルルーシュの手を握った力はぐっと強く、しっかりとしていた。
唇が、なおも開く。
穏やかな眼差しで、紫電はそれを受け止めていた。
「行ってらっしゃいルルーシュ。良い舞台になるように」
「ああ」
しずく 9
「やあやあやあやあ、一時はどうなることかと思いましたけど、無事本番まで漕ぎつけましたねぇ。
オーナーもひと安心でしょ?」
「……まあ、そうですね」
「でも、つまんなそうな顔」
アーニャが横で携帯をいじるその前には、むずかしそうな顔で長椅子の真ん中に腰掛けるジェレミアを
上機嫌に見つめる『しずく』の脚本家が立っていた。ここは今日本番となる会場。これから数時間後には
初演の感動を求めるルルーシュやモニカのファンで一杯になる場所だった。
まだ脚本家にはジェレミアの正妻だと認知されていないアーニャは、また今日も
何故か子どもが喜びそうなキャンディーをその脚本家から貰って、……ジェレミアを指摘しておいて何だが、また彼女のほうも
つまらなさそうな顔をしていた。
「脚本がしっかりと出来あがっているなら、役者は後についていくのみだ。しかも今回は二人舞台で
役者をまとめる人間も必要なかった。当然、想定の範囲内だ」
「出た。いつしかの流行語大賞ですね」
「洒落で流すな。私は真面目に」
「あ」
少し、自分の言ったことに恥ずかしさが出てきたのか赤面する旦那の姿を撮ろうとしていたアーニャが
ふと、小さく開けられたドアに気付いた。その扉が開く。そこには、今日の舞台の衣装に身を包んだ
ルルーシュとモニカが立っていた。
「よろしくお願いします。オーナー」
「……お願いします」
銀水晶を細かく砕いたものを濃紺の布地に散りばめたマントと、これまたどんな職人が手心を加えて仕上げたのか
疑いのある、本物の刀剣のような公子の剣。そして、持ち前の長い金髪を前髪ごと後ろに束ねてポニーテールに流している
健やかな面ざしと朗らかな笑顔の、----------モニカは堂々とした佇まいで、会場のロビーで休憩をとっていた
ジェレミアたちのもとまでやって来た。
反してルルーシュはぎこちない動作で、そろそろと彼女の後ろから顔を出す。
メイクも着付けも完璧に施されているのにどこか頼りなく感じるのは、こうまでしっかりとした女装を
完璧な職人の技とともにしたことがなかったからだろう。しかも照れ恥ずかしそうだった。女がひくようなルージュも
薄くファンデーションを塗られた顔には引かれている。だがルージュといっても、目鼻立ちをくっきりとさせるように
付けられた、薄い桃色程度のものだが。
「うわあ、綺麗だ、お二人とも。オーナーに我が儘言ってみてよかったなあ。ぜひ『しずく』には
モニカさんとルルーシュくんのダブル主演で!って豪語しただけはありましたよ」
「そもそも脚本がクズだったら、その前にうちの役者を使わせたりしない」
「またまたぁ、オーナーだって僕が泉鏡花の原作を脚色するからってOKしてくれたんでしょ。
貴方もれっきとした泉鏡花ファンのくせにー」
「……!そうなんですか」
スザクも好きだと言っていた上演脚本中心に生涯執筆した脚本家を、この男も好きだったなんて。
ルルーシュはまじまじとジェレミアの顔を見つめてしまった。居心地悪そうに目の前で彼は咳をつく。、
「第一、ランペルージとうちのモニカなら、集客効果は確実であると思っていた。現に、初演と千秋楽のチケットは
当日売り以外のものは一時間で完売したし」
「ああ……」
「へえ」
さすがあの大手広告会社をスポンサーにもつ劇団なだけある。集客効果以前にも宣伝技術のほうでもしっかりとした
手はずは行き届いてあるのだろう。
何せポスター撮影だといって撮られたあのポスターが、あれだけでかく駅前に貼られているんだし。
(あれ外してくれないかな)
思い描くだけで恥ずかしい、とうの本人である自分があのポスターの前を横切る光景。
今着ている美女の姿よりも、自分にとっては恥ずかしい。
(まあ、仕事なんだし、いいんだけど……)
「ねえ」
「はい」
不意に、くいくい、と桃色の小袖の裾をひかれた。
気付けばすぐ目の前には今日初めて会話するジェレミアの妻(?)アーニャがいる。彼女はポーチからカメラを出して
モニカと一緒に写真を撮らせてほしい、と言ってきた。
『え?』とその要望に最初は戸惑ったが、モニカのほうが乗り気でアーニャの手を引いて誰もいない壁を選んで
撮ろうとしている。彼女の早い行動力に抗う術は無いので、そそくさとルルーシュもアーニャを挟んだモニカの向こう隣に並んだ。
「ははは、綺麗なものが好きなんですねぇ、アーニャさん」
「……」
ぴーす、と言って脚本家に写真を撮らせたアーニャは至極満足そうに自分に返ってきたカメラを見ている。
まるでファンのような妻のその振る舞いに更に面白くなさそうに顔を歪めたが、
それを目ざとく見つけたルルーシュはジェレミアの前に立って、長椅子に座る彼と目線を合わせた。
「……」
「……」
二人でこうして面と向かい合うのは、冷静に考えれば初めてである。
……最初は騙されたと思って引き受けた舞台の公演だったが、よく考えれば、スポンサーのある劇団で
上演するのはルルーシュにとっては初めてのことだった。
スケジュールとしてはいつもの公演と同じだが、使用する会場も、集客率も、いつもの三倍はある。
そう考えると、色々なことはあったが、かならずしもマイナス的なことではなかった。
自分を大きくするきっかけでもあった、少しの自立を覚えることもできた。そう考えるなら
ジェレミアは(性格はどうあれ)いい雇い主だった。勿論ルルーシュの中での最強は扇だと思っているが。
「あんたは、どこで観てるんだ」
「上手側、前から三列目くらいの位置で」
「そうか」
「どうかしたか」
「いや、いい席だと思って」
ルルーシュはジェレミアに請われて客演を引き受けた。
そう、きっと一番のファンは、彼だったのだ。
「すばらしい舞台に立たせて頂いて感謝します。オーナー」
「本当にそうだと思っているのか」
仏頂面に、声にも抑揚がなく、けれど真面目なことを突然口にしたルルーシュに
ぷっと初めてジェレミアが吹き出した。
モニカが驚いた目でルルーシュと視線を交わす。
……脚本家がはっと気付くまでその場にいる面々はジェレミアの笑顔に硬直していたが、
もう舞台の開場まで三十分しかなかった。
(スザク。来れるのかな)
いつもの扇のところでの舞台なら、もう彼は舞台袖に顔にインカムをつけて裏方に指示を飛ばしているだろうが
今日はどこで何をしてるかも予想がつかない。
それがこんなに寂しいことだなんて知らなかった。そうだ。自分は初めて主演代理で舞台袖にいた彼と会話をしてから
彼のいない場所で舞台に立つことなんてなかった。
今日は、客席に彼がいると思って、ステージにあがる。
それに対して、今更、心に迷いが出るなんておかしい話だった。
*
ランドピット社の社員は、その社員証を持っているだけで、会社系列の公演やコンサートは優遇して席がとれた。
勿論、スタッフと同じく楽屋裏にも出入りすることができる。
藤宮は現場で働くスタッフに自分がただの社員だと思われないように黒いパーカーとズボンという格好をして
楽屋口と書かれたドアから長い廊下を渡り、普通ならスタッフや役者しか通れない関係者通り道へ
足を進めていた。
手のなかにあるマスターキーのカードを握り締める。緊張に汗が滲んで、もう片方の手でさげる袋がいやに重たく感じられたが
ここで失敗して自分の思惑が裏目に出てしまうなんて、……そんなことになってしまうなんて耐えられないと思ったから、
彼女には迷いはあったが、その顔には目的を貫き通す強い目があった。
辿りついたルルーシュ・ランペルージの役者控室のドアの前で、足を止める。
丁度人通りもない時間なのか、誰も藤宮の挙動に不審をもつスタッフはいなかった。
「……だからさ」
部屋の中には彼以外に相手役の女の姿があった。彼女はルルーシュの向かい側に立って
ペットボトルの水をストローですすっている。何かルルーシュに言いたげに、けれど
現すことが難しすぎてうまく言葉を見つけられないでいるような、そんな複雑な面ざしで
椅子に座るルルーシュを見ているように思えた。
「そんな痕つけちゃって、メイクの人もびっくりしてたよー。昨日携帯返してもらってから
すぐ会いに行ったなんて、オーナーが知ったら吃驚するんじゃない」
「別に着付けは一人で出来るんだから、素肌を人前で晒すわけじゃないし、いいと思ったんだ。
着替えを覗き見るなんてそっちのほうが悪趣味だよ」
「まあそうだけどね。でもルルーシュの裸なんてきっと誰もが見たいって思うんじゃない?綺麗は綺麗なんだけど
何かそれだけじゃないのよね。こう、虫が花に吸いつくように何か誘われてるって感じ」
「はあ?それ褒め言葉か」
「褒め言葉よ。私なんてこんなに麗しい公子役なのに、メイクの女の子さっさと仕事して帰っちゃったもの」
やっぱり同性はなびかないもんよねー、なんて言って、また水を含んだ彼女に
机の上に肘をついてルルーシュはぽかんと口を開けた。
「俺とスザクのことどうこう言っておいて、お前のほうがフリーダムじゃないのか。まあ、
人の趣味はとやかく言うつもりはないけど……」
「やだ!同性愛者じゃないわよ、私はっ。ただルルーシュと比較するとやっぱりひがんじゃう部分があるっていうだけで、
それだけの話なのよ」
「はあ」
「もう、何でもかんでも早とちりしないでよ」
せっかちな奴はもてないんだぞ、とモニカから声がした途端、くすくすと笑い声が聞こえた。
……こんな穏やかに彼女に対するルルーシュを見たことはなかったが、間違いなくその笑い声の主はルルーシュだった。
「ルルーシュ……笑ったの見たの初めて」
「え?」
「昨日枢木さんに会いに行って、なんかいいことあった?」
「いいことっていうか……」
「今後の参考も兼ねて教えてよ」
「なんの参考だよ、今後って」
揶揄の意味も含めて、けれど根は真面目に、モニカの顰めた声が少しくぐもった状態でドアの中から聞こえる。
ぴったりと耳をつけてそれを聞こうとした。だが、そうしても、すぐにルルーシュの声はしてこなかった。
彼も何か考えているようで、または、逡巡しているようで。
だが暫く間を置いたあと、密やかな呟きが中から洩れた。藤宮の肩が強張る。足元が、ふいに浮いた感覚がする。
(どうして……)
何で相手の過去もろくに知らないのに、彼の全部を許容できるんだろう。
気付いたらドアから走り出していた。用もなさなかったビニール袋の中身をがさがさと揺らして
無人の廊下を外に向かって走りぬける。
本当だったら、その役目は、……自分か、彼の過去を全部知る女が請け負う筈のものだった。
請け負っていいものだった。
何年も後に生まれたお前なんかじゃない。
『ねえ、いいことって?』
『いいこと、っていうか……モニカがさっき言ってた早とちり≠チていうの聞いて、
ちょっと思い出したことがあっただけだよ』
『?』
『結局ちょっとせっかちになってただけなんだ。俺が、勝手に。それでスザクを困らせて……、
そんなんばかりだったらさ相手も俺も辛いよな、だから考えてみたんだ。思い直したっていうか。
触れるのも、隠すのも、距離を置こうとするのも……それがスザクの全部なんだって』
(私だってわかってた)
……なのに、言葉にしたのはあの子のほうが先で、それなら、
もう何を『理解した』と言っても、全部二番煎じ。私は二番手。
『俺が思ってればいいんだ』
(私のほうが先だったのに)
『スザクが好きだってこと』
(それを初めに口にするのは、私だったのに)
*
舞台が始まるのは夕方の六時だった。客席への入場はその三十分前から許されている。
扇は妻の千草を連れて、既に開場される五分前には、会場前に続く客の列の後ろに並んでいた。
当然、二人ともルルーシュがジェレミアからもらった関係者用席=£ハ称VIP席の招待券を持っている。
……が、そうあからさまに見せびらかすように持っていていいものではない。
本来そんな券を持っている者ならそもそも列に並ぶ必要もないわけだが、
しかし最初この招待券を貰ったとき落ち着かない気持ちだった。
何故なら普通の席も特別な席も、舞台を見る上では関係ないからだった。
(まあ……そんな俺の考えとは反して、あいつは上手側の席と下手側の席とこだわるけれど)
あいつとは、勿論スザクのことだ。
「なあ千草。やっぱ普通の券に交代してもらわないか?何だか悪いような気分になるよ。この舞台
上演日数も少なくて、チケットなんて一時間で完売したっていうし」
「いいじゃない。こういうのは身内の特権っていうやつよ。しかも初めておおっぴらにルルーシュくんが
他の劇団に客演として出る舞台なんじゃない。私はともかく要さんはいい席で観るべきよ」
「はあ」
「受付はどこかしら」
おおっぴらに見せつけるものでもない……とは言ったが、けれど、受付は一般列に並んでいても別なのだ。
何かほんとに居心地悪いな……しかも会場も豪華だし……と、駆けだしていこうとした妻の後に続こうとした扇は、
挨拶とともに掛けられた耳慣れた声に立ち止った。先ほどぼんやりと頭に浮かべていた件のそのスザクが
こちらへと走ってくる。
「おー!来たか来たか。何だか久しぶりじゃないか。朝電話掛けた時は死にそうだったけど」
「すいません、ギリギリになっちゃって。ちょっとゴタゴタしたことがあって、暫く寝てなかったんです……
でも扇さんが電話してくれてよかったぁ」
扇とじかに会うのは、スザクの深夜のバイト先にジェレミアを連れてやって来た時以来だった。
千草も振り返って、急いで走って来たスザクを見る。ぼさぼさとした頭に適当に着てきたシャツとズボンのよれよれ具合に
『ぷっ』と吹き出した。
「ほんとに寝坊したのね。何かしてたの?お友達呼んで飲み会とか」
「いやいや千草。こいつに限ってそんな遊び方はしないだろ。なんか他にあるんじゃないか、寝坊の理由が」
後ろでは長蛇の列が続いている客たちを背にしながら、突然何を言い出すのか、扇はスザクのいつもより余計に刎ねた
髪の毛に拳をつっこむ。
わしゃわしゃと豪快に頭を撫でられながらも、スザクは『ちがいますよ』とそれだけ口にした。
「別に、変なことは」
「気になるわぁ。いつもしっかりしてるスザクくんなのに」
「うう、あんまり食いつかないでください」
「まあいいさ。働き者のお前だ。過労ということにしておこう」
にこ、と笑ってスザクを解放した扇は、満更でもないようにスザクを見ている。
体はくたびれてはいたが、しっかりとしたスザクの受け答えに鬱屈した様子はない、と判断したような
穏やかな顔だった。
「行きましょう。受付が始まったわ」
スザクは藤宮からもらった招待券には普通のチケットとは違う専用の番号がある。
それと招待客の名簿とあわせて、入場できる仕組みらしかった。
無事席について、扇と隣り合わせの席になってステージを見る。
まじまじと見ると舞台人なら萎縮してしまいそうな豪華な客席の数に、照明設備、幕の綺麗さ。
さすがランドピットというスポンサーがついているだけの劇団が行う会場規模だった。
心底うらやましいと思う。きっと裏方なんて劇団の人間じゃなくて会場のスタッフが請け負ってやるんだろうが、
できるなら、いや、ルルーシュが出演するなら、自分が裏方をやりたいと思った。
「なあ、もしかして同じこと考えてたか?」
横を見ると、扇もこちらを見ていた。視線が交わう。まるで頭では言葉にしなかったことまで
読み透かされていそうな黒い瞳で。
心臓が一瞬凍るかと思った。
「えっ……それは」
「舞台やってるなら、こんな劇場で働くのは夢みたいなもんだもんなあ」
「……、はい」
「ルルーシュは、俺たちより先に夢をかなえたんだ」
「すごいです」
まさに月の上にいるような人だ。まぶしくて仕方ない。
「なのに今年いっばい……いや、来年の受験に合格したら、役者を辞めると決めてる奴だ」
「ええ」
「……弁護士になんて、なんなくていいのに」
ふう、と重く息をつく彼に、なんて声を掛けていいかわからなかった。
扇は父親のいないルルーシュにとっての、父なのだ。
そして教師でもある。子どもの決めたみちゆきを殺すようなことは、絶対しない。
(扇さん……)
胸が、固い何かで押し潰されるのを感じながら、ただ、スザクは後に続く言葉を待った。
「……なあ」
「?」
「お前、寝たのか」
首の後ろの、丁度襟足に隠れた部分に見える、朱い痕。
先ほどスザクの心を射抜いた、変わらないまっすぐな黒い瞳で。
スザクはそれにすぐに反応できない自分を、弱い奴だ、と思った。
けれど、逃げちゃ駄目だとも思う。ルルーシュを好きだという気持ちを否定することと
この出かかる言葉を押し殺すことは、-----------同じことだと思ったからだ。
だから、
「……寝ました」
「--------」
「抱いて、はないけど、……じきに、します。絶対します。彼のことを好きだから、もう我慢しないと
約束した」
(中途半端にはできないから)
「ごめんなさい、扇さん。ルルーシュも僕も、貴方にこんなによくして頂いてるのに……期待を裏切って」
でも、後悔はきっとしないんだ。
*
一度去った道をまた藤宮は歩き出して、そこへ辿りつく。幸い楽屋には誰もおらず
貴重品を覗くルルーシュとモニカの私物がテーブルには置かれてあるだけだった。
そこの、雑然とそれた私物の中のひとつに、外見はただの水であるのに口にすると劇薬のような
刺激を口内にもたらす液体を注ぐ。
彼女の首にはランドピットの社員証があった。例えいま楽屋に誰か入ってきても彼女を不審に思う者はいない。
だからこそできたこと。
だからこそ、こうするのは、理由があってのこと。
藤宮は一人楽屋から退室していって、会場のほうには行かなかった。
頭の中には色んなものが駆けまわっていて、どこまで冷静に現実に起きていることを把握できるのか
今の自分の状態に自信がなかったからだ。
「ん?」
「どうしたの、忘れ物?」
「ああ。水分なんだけど……飲みかけのがあったはずなんだけど、スタッフさんが捨てちゃったのかな。
袖幕の下に控えておいといたんだ」
「あー、じゃあ捨てちゃったんだろうね。これ持ってきなよ。誰も飲んでないみたいだし」
控室から外へ出たところに小さな公園があって、ジェレミアたちから別れたあと、モニカとルルーシュはずっとそこで
発声練習をしていた。
喉が渇くのも仕方ない。だが声の調子はいいルルーシュは、いつもだったら絶対しないミスを
気付かずに犯していた。
役者を続けるかぎり、
誰が作ったかわからないものは口にしない。
ペットボトルなどの飲料の回し飲みは絶対しない。かならず自分で開封したものを開けて
数時間のうちに飲んでしまう。
今日という日までずっとそれを続けていたというのに、油断していた。
「ほら、これ」
本番開始10分前。モニカに差し出されたペットボトルの封をきってルルーシュが中身を口にした時刻。
--------二人の間に流れていた時が、一瞬にして止まった時刻。