彼を例えるなら、水。

俺は多分、そこに落ちた墨汁の一滴。







しずく 3





























そろそろ家庭訪問の時期だとかいって、扇はもっぱら小学校の職員室が仮の住処となってしまってるらしい。
彼は実直な人間で、千草が妻となるとプロポーズに頷いてくれたその日から決して連絡無しに外泊するような
ことはなかった。今日も稽古場の作業をすべて任せたスザクにも連絡を入れ、家で洗濯や掃除をする千草にも
夜八時頃には電話をし『家庭訪問の準備で帰宅が遅れる、もしかしたら帰らないかもしれない』と
電話を入れていた。扇という男はそれほど几帳面な男で、自分の言ったことにはクソがつくほど実直な男なのである。


そして、その報告を受けた千草は、しかしでも……と、やはり少し不安になったものだから、
まさかスザクが稽古のあったその公民館でルルーシュに泣きつかれているなんてことは知らず
稽古場にいるスザクへ頼みごとをした。小学校の職員室まで行って少し様子を見てきてくれ、と。
スザクもいいですよ、の返事ひとつでそれを了承した。むしろ本人にとってはその頼みごとは願ったりだった。
普段なら仕事をする扇の邪魔はできない、と遠慮をするのが常のスザクだった。どんな相談ごとがあっても、だ。
だが今日は千草の頼みのおかげで遠慮をする必要がなく、仕事場へ行くことができる。

スザクは急ぎ足で、車で数分飛ばした距離にある小学校へ走った。助手席に沈黙するルルーシュを乗せて。
ルルーシュの目はずっと反らされたままであったけれど、きっと扇の前に出ていけばあげざるをえないだろう。


だからあえて『しゃんとしろ』なんて言葉は掛けなかった。
ルルーシュが一番解っていることだと思ったから。……何を、というと、扇の友人である間柄に油断して
まんまとジェレミアの策略にハマってしまったという、その若さ特有のうっかりさを、である。






















「具体的には?」
「その……俺が最初に受けた企業ポスターの撮影は、どうやら企業自体を宣伝するものではなくて、
もともとモニカとの舞台を告知する為のものだったようで……。
つまり、俺に依頼してきたランドピット社とモニカの劇団は、依頼する前から既に繋がってたみたいです」


小学校について、教員専用の玄関から入り職員室で残業をこなす扇のもとへと行けば、すぐに事情を説明するように求められた。
多少混乱から抜けはじめた頭で整理しながら話すルルーシュに、耳を傾けたまま沈黙する扇の顔はどんどんと険しくなっていく。
スザクは一人、扇の机周辺しか明りのついていない職員室の中でルルーシュの後ろから一歩ひいた位置に居て、
コチコチと小さく音を立てて回る壁時計の秒針を見ていた。

「ジェレミアは、どんな奴か知ってるか?」
「知りません」
扇の劇団でしか舞台に立ったことがないのだからそれは当然だった。
だが多少なりとも横の繋がりがある扇とスザクは、嫌な予想が的中したというような苦虫を噛み潰した顔をする。
「少し警戒心を持ってくれ。まあ、今更言ったってどうしようもないけど……」
「……、はい」
「ジェレミア・ゴットバルトという男は千草の前の旦那だ」

『えっ』
『そうなんですか』
声には出さないが、ルルーシュとスザクの顔からは普段の表情が抜け落ちて、目が驚きに染まった。
劇団の中でもそれほど知っている者は居ないらしい事実を微妙に感じさせつつ、扇は再度、職員室に自分たち以外誰もいないことを確認して
淡々と口を開く。
「色々ややこしい問題があってな……まあもうお互いに忘れてるけど、や、忘れたつもりで今まで来たけど、どうやら
そう暢気には構えていられないらしい」
「あ……」
「どう出るつもりなんですか」
スザクが、黙っていようと思っていたけれどつい無意識にも口を出してしまったことに気付いたのは、意外そうに上げられた扇の
顔を見たその時だった。
「どう出るって。……そりゃ、うちの看板俳優を易々と芸能人にはさせられないさ」
「ですよね」
「でも、ルルーシュには暫く、うちの稽古には出ないようにしてもらったほうがいいかもしれないな」




「え……!」






思いもよらない言葉だった。しかも、稽古の時間と受けた仕事とどう両立していこうか考えていた矢先に。
だが、スザクに上げられて、その彼の前に立っていた自分にヒタリと向けられた扇の瞳には
否やなんて言う隙なんて少しも見られなかった。
「劇団のためだ」
「……俺、もう要らないんですか」
次の公演-----------時間帯的に言えば丁度モニカとの客演をやりながら練習をして、そちらの千秋楽を終えた次の週に公演を開始する舞台。
そちらの主演にもいつもと変わりなくルルーシュが選ばれていた。つまり、稽古に出てこないでいいと言うことは……。
「要らないとは、別に」
「そう言ってるようなものじゃないですか。ていうか、何で?千草さんの前の旦那さんっていうことは知らなかったから、
それはしょうがないけど……!」
まるで扇はルルーシュにまだ説明していないことでずっと隠したままにしておきたいことがあるように、ふいと視線を背ける。
一歩前へ出て、後ろにいるスザクの存在も忘れ、その反らされた視線のあとを追うように口を開く。だがやはりすぐに腕は伸びてきて、
あっけなく近づいた距離を後ろから腕をぐんっと引かれ、空けさせられた。


きっと、呆れたように見つめているだろうスザクの顔を振りかえるのが、怖い。

「俺……」
「……」
「邪魔に、なったんですか」
「聞いてなかったのか。暫く≠ニ言ったんだぞ俺は」
飛躍するルルーシュの考えに苦笑で扇が返しても、ルルーシュの寄せられた眉は更に険しくなっていった。
「このタイミングで……。ひどすぎます。何も俺は悪いことなんてしてないのに」
「ルルーシュ」
腕を掴むスザクの声が耳を打つ。ふるふるとそれに首を振って、ずっと自分にとっての家族のように思ってきた男の顔を
はじめて会う者のように見つめ返し、ルルーシュは膨れ上がった動揺と想いのままに声を吐きだした。
「俺の一番大切な仲間は、劇団のみんなのほうです。俳優として有名になりたくて外注の仕事を受けたんじゃない……!」
「そんなことは解ってるさ」
「……じゃ、じゃあ」
「少し距離を置いて様子を見よう。ジェレミアのこれからの動きと、お前を芸能界入りする相方に選んだモニカの考えも
探る必要があるんだし」
扇の判断に必然性があるなんて思えない。後ろにいるスザクもそれを聞きながら感じていた。だから、掴みかかろうと
してきたルルーシュに向けていた鋭い視線を扇が解いた瞬間、自分も掴んでいた腕から、そっと手を離した。


まるで離されたそれが振り子人形のように揺れる。公民館では錯乱したままに子どもっぽくスザクに温もりを求めた顔が、
今は廃墟の片隅に捨てられた小動物のように頼りなく扇を見つめている。しかし、そんなことで扇の判断が揺らぐとは、
スザクは考えられなかった。

帰ろう、そう言った。


ルルーシュの服の裾をひいて、スザクもまだ扇から聞きたいことがあったが、机の上に散らばった書類と
何時間前にいれたか解らない冷めたコーヒーにもう随分と長いこと居残っているのだと知って、遠慮し、
中々動かないルルーシュの体を引きずるように職員室を出ていく。
扇は難しそうにまた机へと向き直って、出て行くルルーシュたちを目で追いもしなかった。

























「演劇界でのジェレミア・ゴットバルトという男は元々大手のプロダクションの育成部門に居た人物で
確か前にニュースで取り沙汰されてた時、お茶の間で千草さんがぼんやりそんなことを言ってたのを聞いた覚えがある。
……まさかその千草さんとジェレミアが元夫婦だったなんてのは、知らなかったけど」
「扇さん、昔のことは全然話さないもんな」
「僕たちが劇団に入る前から二人は夫婦だったしね。そりゃ前の旦那のことなんて話したがらないさ」
「でも、その旦那がまだ同じ世界で働いてんだよな」
「しかも直々にルルーシュを、と扇さんに頼んできたのはとうの本人のジェレミアだしね。あっち側には
確執とかないのかな」
「……どうだろ」
ルルーシュを送っていく帰り道で、あまり人の通らない、駅前から少し外れた公園に続く広い坂道があった。
その道の端に車を停めて、しばらく夜の闇を見ながら会話する。足元には学校の門で見つけた自販機で買ったコーヒーが
置かれていた。多分、このコーヒーが残ってる間はこうしていられるだろう。


そっと窺うように横を見ると、助手席の背もたれに背中をつけて、スザクと同じくぼんやり宙を見つめながら、
けれど目の端を赤くしてルルーシュは鼻を啜っていた。
まさか風邪をひいたんじゃないよな、と焦ったけれど、そうではないらしく……指先で鼻を擦って、握った拳を
伏せた瞼に強く当てた。それだけで、見ているだけで胸が痛くなった。ルルーシュが自立するのはいいと思って、依頼を二つ両立することを
認め、スザクも応援することを約束したけれど……そのしっぺ返しはあまりにも強すぎた。
だってルルーシュはまだアマチュアだから、自分の意に沿わないという理由だけで依頼を断ることはできない。
それも逃げ道である劇団から『稽古に来るな』と言われ、心がへし折れないわけないだろう。



……ああ、
バイトが入ってなかったらな。今みたいに夜迎えに行って、どんな愚痴でも聞いてやれるのに。
確か彼は数日前自分に『心配なら電話かメールをしてくれ、誕生日の夜みたいに』と言ってくれていた。
愚痴をきくことがそれに変わるならいい。だが逆にスザクが怖く思うのは、スザク自身がそれを支えにしてしまうこと。


ルルーシュが弱くなっていることを期待して、今以上に心理的に距離を縮めてしまうこと。
今以上に近づいてしまうことが、怖かった。



(なら、どうすればいいんだ)



「なあ、スザク」
「?」
「-----------ジェレミアの舞台に出るからって、扇さんやみんなを裏切ることにはならないよな?」
「そんなこと、ないよ」

あるわけがないだろう。
芸能人になることはルルーシュが個人的に回避することで解決できるとして、
一度受けた依頼をそのままこなして、結果的に扇の、自分の住処であった劇団に戻れないということは絶対にない。
もしそんなことになったら……スザクだって、扇の劇団にいる理由がなくなってしまうのだ。


「考え過ぎだよ、……ルルーシュ」
「……だっ、て……」

また俯きはじめた肩に運転席から手を伸ばして、スザクは身を乗り出す。不意に近づいたスザクとの距離にルルーシュの
瞳が驚いたように開く。数秒、唇を触れ合わせる。いつしか欲望に任せた冒険心で果たしたディープなものとは違う、
初恋のような軽さのもの。でもそれで充分だったのか、夜の静寂の中に浮かび上がる白い面差しからは、すっと強張りが抜けて
逆にオバケ屋敷に入って本物の幽霊と遭遇したような、呆気にとられた表情をしていた。
それに少しむかついて、『こっちはこっちで悩んでるんだぞ』の意思表示に、ごつんと額を軽く握った拳で小突いた。

「スザク……」
「稽古には来るなって言われたけど、引っ越してから家は扇さんとこと近くなったんだ。
またルルーシュにも休みができたら、二人で千草さんのごはん食べに行こう。それまでお互い……」

夜の空気に自販機で買った缶コーヒー。
少しだけ触れた温もりに、数年恋人になっても未だ解けない緊張に戸惑いを覚えながら、
それでも月の下に二人きりで居られることに感謝した。明日も会えるよ、とは言えなかったけど
スザクはそれでもルルーシュを元気づかせるために『電話する』と約束した。
……うん、とそれに頷くルルーシュの髪が、暗い中でもサラリと揺れたのが解る。


だから、この時まだ何の不安も抱いてなかった。
きっとスザクもルルーシュもどちらも乗り越えられると思っていたから。

だけどどうしてこの時そんな風に思えたんだろう。
後でスザクはこの時の自分の甘さを酷く悔やむことになる。もし、例えばこの瞬間に
ルルーシュをどこか知らない土地に連れ去ることでも何をしてでも、仕事からも舞台からも
解放することができていたら、後になって彼を酷い目に遭わせることになんてならなかったんだから。


きっと、この時のスザクもまたルルーシュ同様、全体を見通せる力なんてなく……
自分のことしか見えてなかったんだろう。












先日、スザクのバイト先のポストに、誰だか解らない毛髪と中傷目的の手紙が投函されていた。
































「げいのうじんとさ……」
「ん?」
「俳優ってどう違うわけ」

金髪頭に首にバンダナを巻いた長身の弟から突然された質問に、モニカは一瞬意外な顔をして相手を見つめたが、
すぐに穏和な顔をして、目の前で行われている写真撮影に向き直った。
「露出度の少なさ、かしら」
「へえ」
「ジノ、貴方も経験あると思うけど……芸能人がドラマに出る場合と、俳優がドラマに出る場合、やっぱりメディアが
取りざたする時のやり方も、変わってくるでしょう?」
「……やり方、って」
「インタビューの時の質問とか」
「ああ、芸能人に対してはやたらプライベートなこと聞くくせに、俳優には風格がどうの、とか次回作への期待は、とか
当たり障りない質問しかしないあの感じか」
「ええ。だから、多分……人前に出る仕事≠チてのは変わらないかもしれないけど、身分社会みたいなものなんじゃないかしら。
芸能人はきっと芸能人としてデビューしたら、ほぼ一生、テレビの向こう側に対してファンサービスしてかなきゃいけないのよ」
「その点、俳優はバラエティに出ても無愛想にしてても許される、と」
「ええ」
「いいな、俳優ー」
向こう側で行われてる、モニカとその彼女が指名した俳優との舞台用ポスターの撮影がようやく終わったらしい。
男は痩せ型の長身で、瞳は特徴的な紫だが髪は東洋人によく見られる黒茶色をしている。何故かスタジオ入りしているモニカの弟、ジノに
最初の挨拶からして不機嫌そうに応対した彼の名前は、ルルーシュ。
……演劇ではそこそこ有名な若手の俳優で、今モニカが心酔している男だった。

その彼が『お疲れ様です』のスタッフの声と共に、白い壁面の横を過ぎてスタジオの外へ続くドアを目指す。
ポスター撮影といってもランドピットの広告にも使われるものらしく、今日は軽いポラ撮りということで、
モニカは撮られることはなかった。だからその分ルルーシュはフレームの前に立つことになって疲れたのだろう。
しかもジノまでモニカに付いていって見学していたのだから。

「ルルーシュ!待って。一緒にお茶しよう」

ジノとの会話を中断し、慌てて黒髪のあとを追いかけていくモニカにジノもついていった。
心底不機嫌そうな顔をしてルルーシュが振り返ってくる。当てられたこともないフラッシュの数に『あっち向いて、目線はこっち』など
多くの注文をつけられたことにストレスも極限にたまっていたのか、こちらを向いてきた目線は据わっていた。だが構わずモニカは
細身のその白い腕をとって、春色のキャミソールにペールトーンのカーディガンをはおった胸へ引き寄せ、
自分も同じくそのドアを潜っていく。
ルルーシュは彼女の突然の誘いに戸惑ったが、そんな程度で止まる相手でもないことをこの短い期間で充分身に染みていたのか
あまり抵抗することもなく、ずるずると引きずられていった。








「ねえ、何にする?奢るわよ」

これから共演する相手なのだし仲良くしよう。
ファーストコンタクトのあった次の日には、もう予備校まで押しかけてきた彼女に対して、やはりルルーシュは最初
壁≠作った。だがモニカは役者としても先輩俳優としても、謙虚な精神でもって自分に接しようとしてるらしく、
セカンドコンタクトである昨日予備校へ押しかけてきた時は、脇に義弟であるジノ・ヴァインベルグを引き連れてきた。

年増の女と二人きりでいるより、最初のうちは同年代の同性も居たほうが肩の力が解れるだろう。


……そんな風に気を使ってくれるモニカは、年齢としてではなくても、やはり、年上の女らしく大人≠セった。




「その、金は持ってるんで、奢りとかはいいです……よ」
「いいのよ。どうせジノのぶんも出さなきゃなんだし。それに喫茶店なんてどれを頼んでもそう高くつかないわ。
気軽にやりましょう」
ジノを向かい側のソファの奥に座らせ、その隣にルルーシュも座るよう手で指し示す。
おずおずと腰を低くしながらジノの隣に座ったのを見て、モニカは自身の長い横髪を肩に流して
メニュー表をとった。予備校に稽古にポスター撮影とハードワークをこなす年下の男子にせめても精がつくものを
食べさせてやりたいらしい。なんて押しつけがましい気遣いだ。
だが彼女の話す言葉、それに彼女の見せる態度。それらはすべて本物だった。
流石にここまでストーカーよろしく後をついて来られ、その上食べるものまで世話をされたら、
いくら警戒心の強いルルーシュでも、ずっと撥ね退けるように相手をすることは、難しい。
「あの、モニカさん」
「あ、安心して。これはジェレミアの差し金とかじゃないから。一緒に舞台をやりたいって言ったでしょ?純粋にファンなのよ私」
モニカが語る言葉は本物で、嘘はないように思えたけれど……しかしそのままに受け止めるにはあまりにも綺麗すぎて、
怖い。
横にいるジノをそっと窺い見るけれども、彼は姉の広げたメニュー表に食いついてこちらを見もしない。まるで
ここまで連れてこられたルルーシュは逃げ場を封じられたネズミのようだ。
まあ、ネズミにしては、……年はそこそこにとっているかもしれないが。
「何がいい?ルルーシュ。焼き肉定食とかあるわよ。貴方二十歳には見えないくらい細いから」
「あ、すいません。俺……人が焼いた肉とかって食えないんです。どれだけ脂が使われてるか解らないから」
「……?」
「何それ。食事制限?」
はじめてジノがルルーシュへ話しかけた。おっかなびっくりしながらメニュー表からあげられた初めての視線に
ルルーシュが答える。
「その、……特にこういうチェーン店なんてのは、どんなものが他に入れられてるかわからないし」
「じゃあ何。お肉とか炭水化物とか、こういう外で食べることは一度もないの?」
「まあ、はい……」
「じゃあ友達とかと出かける時どうしてるの?」
「それは、ミネラルウォーターとか、紅茶とか、あんまり冷たすぎないものをごくごくと」
一緒に連れ歩く相手としては嫌なタイプだろう。
金髪の姉弟に『まじで?』という顔をされながら、それでも『役者として必要なことだ』と言うルルーシュは、
ウェイトレスから出されたお冷もすぐには飲まない。少し温くなってから、ようやく飲めるのだ。
「喉を、痛めてしまうので」
「まじで……?すっごい気遣いしてるんですねー。姉貴がそういうのしてるの、見たことないけど」
「うるさい。体作りは人それぞれよ!私だけがしてないからどうこうっていうわけじゃないんだから。
……でも、ふーん、そう。やっぱ違うわね、貴方」
モニカは嬉しそうに目を細めて笑った。向かい側に弟と並んで腰かけたルルーシュの手をそっと掴んで持ち上げる。
桜貝がそのまま嵌めこまれていそうな綺麗な爪をした手のひらをおし包むように支えて、
彼女は感激極まりないといった顔で目を閉じ、うっとりと吐き出した。
「そのヴィジュアルは親から恵まれたものってだけじゃないんだ」
「……」
「何か嬉しいわ。貴方みたいな堅実な役者が、まだこっちの世界には生き残ってたなんて」
私もそういう努力しなきゃねー、と言いながら、モニカが自分のメニューに頼んだのはアイスクリームがでかでかと乗った
クリームソーダだった。
「姉貴は少しルルーシュの半分でも自分で調整したほうがいいんじゃないか」
「うるっっさいわね。無性に飲みたくなる時があるんだからいいの!体調に気を使って水しか飲まないより
たまに甘いものいれるほうが女の場合はいいのよ」
外見相応な、少し気の強い口調で言い返すモニカの主張は勿論ルルーシュを意識してのものだった。
だが『気軽に』と言われただけに、言われたほうのルルーシュはしれっとしていて、ウェイトレスに無表情に
サンドウィッチを頼む。
そしてようやく適温になったお冷のグラスを持って少し口に含んだ。
「……綺麗な顔してると思ったけど」
「また何ですか」
「そうガバガバ水ばっか飲んで飽きない?たまにジャンクフードとか食べたくなる時とかない?」
「ないです」
意外と好き勝手するとすぐ太っちゃうんですよ、と言う。アニメや漫画の世界みたいに何の努力もなしで綺麗なままでいられることは
絶対にない。こうして水を適度に飲んで体の代謝をよくするのが、ルルーシュなりに考えた、不規則なスケジュールの中で
荒れない肌を保つ対処法だった。睡眠をとるよりもよっぽど効く。
「女とか男とか関係なく、水を飲むことはいいですよ」
「む〜……貴方が言うと説得力あるわね」
「ほら姉貴。やっぱり美人は天性からくるものじゃなく日々のこつこつとした努力で培われるものなんだよ」
自分だってそう悪いヴィジュアルではないのに、アイスコーヒーを頼みながら机に頬杖をついてジノが言う。
彼の言葉を受けたからかは知らないが、膨れた顔をしてじっと弟を睨んでいた動きが止まった。


「そう考えると、何だかルルーシュ、貴方、水みたいな人ね」
「……そうですかね」

何を突然言い出すんだか。やはりよく解らない人だ。
ルルーシュの一度敷いた壁は中々崩れなくて、隣に座る弟も向かいに居るその姉も、まだ心を許せるとは思えない。
水みたいだ、なんて言われても、自分の努力をただからかわれてるような感じしかしなかった。

はあ、小さくひっそりとしたため息を落とす。
あと一体何日経てばこの環境から抜け出せるんだか。今のルルーシュには、一日でもはやく稽古場に復活できることが
心の頼りだった。
































嫌がらせ、と断言するのはまだ早い。
スザクのアパートのポストや、バイト先の関係者用出入り口の壁に貼られたりする中傷まがいの紙や写真。
仕事は、昼は介護ヘルパーの手伝いをして夜は翌日の朝まで街中の小料理屋で普段は働いている。
ルルーシュとつれ立って歩く姿を撮られた写真が貼られていたのは、夜のバイト先のほうだった。
差しだし主もそこでスザクが働いてるのをよく見ていたのだろう。昼間のヘルパー先なんて公的な場所ではないから
検討もつかないだろうし……。とにかく、小料理屋の老夫妻に『大丈夫なのかね』と心配をされた時は
まだ何も思っていなかった。だが流石にこのままではやばいなと思い始めたのは、先日ルルーシュを車で送っていった帰り道、
誰かが後をついてくる気配を感じたのだ。
まさか自分が標的にされているとは思っていなかっただけに、車を停めて鍵を引き抜いた時に感じた背後の気配に
背筋がゾッとした。だがルルーシュと付き合い初めてこんなことが起きたのは別に初めてのことではない。
(今回のも、ルルーシュのファンの人たちからかな)
そう、思っていた。
だがそれなら送られてくる写真や手紙にも、それらしいことが書かれていていいはずだ。
なのに、バイト先に貼られた写真にも送られた手紙にも、依然受けたような乱暴な言いまわしを綴った形跡はなく。
どこか意味深に、手を繋いだ箇所を黒く塗りつぶされているだけだった。二人の顔はどちらも傷つけられてない。


ただ『ルルーシュから離れろ』という意思表示と受け取っていいのか。
または、それとは違う……真逆の意味にとらえたほうがいいことなのか。

これだけの嫌がらせだと、本当にどちらのように受け取っていいのか解らなかった。



小料理屋の主人に警察へ持っていったほうがいい、と言われてから、スザクもことの重大さを自覚し始め、
とりあえず扇と千草に相談した。以前受けたファンからの嫌がらせでは相談のようなことは一切しなかったものだから
二人はまず、そんなことをスザクが受け続けていたという事実に驚いた。


「何だぁ?これ……」
「髪の毛って、気持ち悪いわね」

二人がスザクの持っていったものを見た時、まず口にしたのが『異様だ』ということ。
そして第二に誰が何のためにこんなことをしたのか≠ニいう問いには、扇も千草も標的はルルーシュのほうではなく
スザクのほうだ、と答えた。
自分のことにはとても疎いスザクは身に覚えのないことということもあったので、その意見にはすぐに頷けなかった。
「ルルーシュのことが好きで、道端で突然見かけた僕に八つ当たりってことは前々からよくありましたけど……
でも今回のこれがルルーシュに関係がない僕単体のものだなんてのは、正直」
「でもバイト先に送りつけられたものとか、自宅の玄関まで来て投函されてた写真とか見ると、殆どスザクくんに
ピントが合わさったものよ。しかも……ねえ、扇さん」
洗濯ものを取り込んでる最中だったのか、膝に畳んだシャツを置いたまま腰だけ捻って、斜め横に座る扇へ
視線を向ける。
「ああ。笑ってる顔ばかり。こいつきっとお前のこと好きだぞ!スザク」
「ええっ。そ、そうなんですか?そうなるんですか……?でも、あ、うーん、確かにそうだなあ。ていうか、」
ルルーシュと並んで歩いてる限り四六時中ニコニコしているようなものなのだが。
そのことに言わずとして気付いた夫妻も、そんなにこやかにしていい状況ではないと解っているのに、微笑ましく
笑顔を向け合ってしまう。
だがすぐにしゃんと背筋を伸ばして、まずはやはり警察だ。髪の毛なんて気持ち悪い!と千草は自分の携帯を突き出してきた。
それに扇もうんうんと頷いて、『丁度ルルーシュと離れてるいい機会なんだから、あいつに知られないうちに片づけてしまえ』と
言う。
まさかそれに逆らうなんてことも出来ず……。そっと手にした千草の携帯のフラップを開いた。が、そこで何故か
千草の携帯のほうに電話が掛かってくる。
「え、あ、千草さん……」
「あらやだ。誰かしら。大事な時に」
スザクから受け取ってディスプレイを見た千草は、言葉を紡いでいた口をすっと閉じた。
扇を見る。そしてスザクを見て、------------畳んでいたシャツを自分の座って居た座布団の上へと置いて、立ちあがった。
「ごめんなさい。呼び出し受けちゃった。ちょっと出てきていいかしら?」
「こんな時間にか」
「すぐ戻ります。不安だったら、そうね……スザクくん、着いてきてくれる?」
「え。僕ですか」


うん、お願い。と顔の前で両手を合わせる千草に、すっと自然に畳みから立ちあがった。


相手は誰なのだろう。そんなことは扇の前では聞いてはいけないのだろうか。
千草はただ早足に外へ出る仕度をして、スザクを連れ立って玄関の外へと出ていった。扇は不思議に思うこともなく
自分たちを玄関前まで送りだした。一体どうしてこのタイミングで、扇ではなく家で家事ばかりこなして日々を過ごす千草が
呼び出されたのだろう。

「あ、あの」
徒歩で行く気か。玄関先に停めたスザクの車を通り過ぎてとことこと歩いていってしまう銀髪にスザクは声を掛ける。
だが振り向かないまま、ずっと目的地に着くまで千草は黙ったままだった。










暫く歩いていると、突然、前を進んでいた千草からぽつりと言葉が吐き出された。
「……要さんから、ルルーシュくんを暫く稽古に出させないって、聞いたわ」
「……、はい」
「それは多分、私のせいなんでしょうね」
「どうしてですか」
「うーん、これから会う人を見れば、そう思うわ。要さんは少し不安だったのよ。私のことは別にいいけど、
私が原因でルルーシュくんが傷ついてしまうのが」

思いがけない千草の吐露に、スザクは息が止まった。



辿りついたのは駅前の喫茶店。昼間なら若い子たちで繁盛していそうな明るい店内に、
つい先日ヘルパー先の家のテレビで見たことがある特徴的なスーツ姿の男を見つけて、踵を返して逃げだしたくなった。


「さっき呼び出した人物、って……」
「そう。あの人よ」

茶化して言う千草の指差す先には、何をそんなに気に入らないことがあるのか、眉間にしわを寄せて
懸命に濡れタオルでテーブルを拭いているジェレミア・ゴットバルトの姿があった。









(勘弁して下さいよ……)