扇の主宰する劇団は、本部という名の事務所≠ェ存在しない。
そんな流浪の親子劇団のような生業で儲かるのかと経営自体の方針に疑問をもつだろうが、
劇団の主宰の扇も千草も、特にその辺りの設備については頓着などしていなかった。


だが勿論団員との連絡用の回線は一応ひいてある。(一応、とついてしまう辺りがとても問題だが……)
扇は昼間は小学校の教師をしていて、例えばルルーシュ目当てで仕事のアポイントメントをとる企業からは
働いている間電話を受け取ることができない。勿論、それは小学校のほうへは劇団をやっているなんて教えていないからだ。
ならば本部もない、電話しか連絡手段がない劇団の運営は誰が回してるんだ?と、いうと当然妻の千草で。
……昔の姿を思うと今の人気ぶりが少し信じられない、子ども同然に想っているルルーシュのスケジュール調整、
依頼主との橋渡し兼マネージャーも彼女が務めていた。
家事をしながら電話を受け取ることもある。
ここまで読まれた方ならお気づきかと思うが、劇団の電話番号=扇と千草の自宅電話番号である(笑)







その日も扇が朝早く出勤していった後、変わらずの習慣で畳みを乾いた布で拭いているところに
電話が掛かってきた。
「あらやだ。火つけたばかりなのに」
台所のコンロの上には水を足したヤカンが乗っている。彼女はそれが煮立つのを気にしながら
目の前でチカチカと点滅する電話の子機のほうを素早く取り上げ、耳へ当てた。
「はい。扇ですが……」
劇団の連絡窓口でもあるが、一応最初の挨拶はこうである。
通話主はさぞ吃驚することだろうが、これが扇劇団の普通なのである。お勝手仕事に毎日忙しく立ち回る夫人そのもの、といった
千草が、夫やルルーシュの世話は置いとくとしても、まさか劇団の経理まで担っているとは思わないだろう。
「はい、はい……ルルーシュくんにですか?そうですね、携帯の番号を教えてもいいんですけど、ちょっとまだ本人も
起きてないと思うので、はい……悪いんですけどまた掛け直して頂けますか?」
電話をしてきたのはオーディションを明日に控えている広告会社のほうではなく、『ぜひルルーシュと舞台を』と
ラブコールしてきた扇の友人が主宰する劇団のほうだった。彼女とも付き合いがある主宰者だからか、当然の対応といった風に
夫人の言葉を受け取って電話を切る。


ピ、と千草は通話ボタンを切って、再び畳へと膝をついた。遠くではシュンシュンと湯気を吹き出したヤカンが音を立てる。





扇はルルーシュの仕事だからルルーシュの自由に、とは言っていたが、親代わりともいっていい彼が、ルルーシュが舞台以外で
注目されるポスターモデルをするなんてこと、とてもじゃないがさせたいなんて思うわけないだろう。
--------だが、先日スザクから聞いたら、彼は結局舞台もモデルも両方やるらしいのだ。
そんなことができるのは若いうちの今しかないから、……なんて。



(もっとスザクくんと過ごす時間を増やしたらいいのに)

と、その言葉をスザクから聞いた時、衝撃を受けたと同時にそんなことを思った。

ルルーシュはどこかで、スザクがずっと自分のことを見たままで傍に居てくれる、と思いこんでいるふしがある。
確かに扇のような父性な心でスザクはルルーシュに対しては殊のほか甘いかもしれないが、
--------別にそれはルルーシュのことを子どものように思ってるからではないのだ。実際、スザクはすごく我慢している。
裏方の会議で舞台のセッティングを決める時に口にする言葉は、すべてルルーシュのためを思ったもの。それを千草は稽古裏で
聞くたび胸が痛くなる。何故って彼らを結ばせていないのは扇と自分の我儘だからだ。


だからルルーシュはスザクの想いの強さに気付かない。
スザクから与えられるそれを、無償の愛みたいな綺麗なものだと勘違いしている。
ちがうのだ。





そんなことでは、いつかきっと誰かがスザクをとっていってしまう。意外なほど簡単に。



(若いから、といって色々仕事をするのはいいけれど、得られるものばかりじゃないのよルルーシュくん。
失うものが多い時もあるわ)


































「ふうん。それで明日からどうするんだ」
「だからー、予備校はちょっと休むことになるけど、扇さんのほうの稽古は変わらず出るつもりで……。
結局オーディションやるのは昼間だからさ。昼間さえ空けておけば企業としてはどうでもいいんじゃないの」

もぐもぐ、と動く友人のハンバーガーに噛みついた口元を見ながらルルーシュが言った一言に、
『ええっ』と、そのハンバーガーに噛みついていた当人のリヴァルが大きな声をあげた。



「お前、この間の模試も稽古疲れだとか何だとかいって良くなかったじゃん。そんなんで来年合格できんのか?」




ポスターのオーディションに関わる打ち合わせだとか何とかいって、急遽、昼から夕方まで通っている予備校を
休むことになったルルーシュは、『丁度いい』ということで、友人のリヴァルとシャーリー、カレンと四人で
駅前のファーストフードに入ることになった。


だが残念なことに脂ものは一切摂ってはいけないルルーシュは、何が嬉しいのか一人だけウサギのように
ハンバーガーのセットにつくサラダだけ食べていた。向かい側にいるリヴァルはてりやきバーガーで、
もごもごと喋る口元にはべったりとソースをつけている。たまに喫茶店とかで待ち合わせるスザクは
そんな汚い食べ方しないのに……とかノロけるようなことを思っていたら、先日会ったばかりだというのに
もう禁断症状が出たのか。また彼の声が聞きたくなった。
(くそう、電話したいな)
もし早く電車に乗ることができたら、少しくらいは自由にできるんじゃないか。
手探りでポケットに仕舞ったままの携帯に触れながら、ルルーシュはリヴァルの後ろの時計を見上げる。
「模試ねえ。まあその結果がそのまま合否に響くわけじゃないし……。ルルは人気俳優さんなんだから
仕事は仕事でがんばればいいと思うよ」
シャーリーはリヴァルと違って、現実的ではないにしろ、ちゃんと地に足がついた答えを言ってくれる。
反対にルルーシュに親でもいればその親が言っていそうなことをぐちぐちと言うのがリヴァルだった。
彼もルルーシュほどではないが大変なのだろう。まあ、今年の試験に賭けてるという点ではここにいる全員がそうなのだが。


「俺は」
「ん?」


レタスが口の中でしゃくり、という。それをごくん、と飲みこみ、時計から視線は外さないまま口にした。
「別に、人気俳優だとか思って舞台を続けたいと思ってるわけじゃなくて」
「あ、そうだったんだ」
「ただ俺にとっては、劇団の面子が家族みたいなもんだったから大学があるとかこれからの将来のことを考えなくちゃ、とか
そんな理由で辞めたいものじゃないんだ。--------辞めれるものじゃないんだ。だから広告のモデルの件もさ」
「そのモデルの件だけど、貴方の親代わりっていう団員さんとかは了承してるわけ?」
「……」
ずっと無言だったカレンの突然切りだした質問に息が止まる。
首をゆるく振ることでしかその質問には答えられなかった。
「……貴方はただやってればいいわよ。自分の顔やスタイルが企業のいいように使われて構わないっていうなら」
「カレン、その言い方は」
「でもルルーシュが舞台とは違ってやろうとしてることは、つまりそういうことでしょ。モデルなんて俳優と違って全然いい話聞かないわよ。
貴方それで平気なわけ?ファンの見る目も変わるのよ」
そうまで彼女に言われるまで気付かなかった。確かに、ルルーシュがステージではなくカメラの前に立つことで
自分に幻滅するファンも居るかもしれない。
そのことには、今まで全く思い至らなかった。


(ただ……)



扇や、スザクに、自分は一人前だと認めてもらいたくて、依頼を受けた。それがかえって自分の役者人生に裏目に出てくるなんて、
依頼の両立しか考えてなかったルルーシュには想像だにしないことだった。



不意に、手探りで触っていたズボンのポケットにいれた携帯が震え出した。


「あ」
「?……彼氏からか」

「いや」


リヴァルのちょっと茶化したような言葉に、いつもの自分だったらすぐ反論できていた。けれどそうしなかったのは、
いやむしろ出来なかったのは、-------カレンに指摘されたことに頭が真っ白になっていたから。
だからか、静かにルルーシュはテーブルの上まで持ち上げたそれを見降ろしたまま、カレンとシャーリーの前で
すぐに動くことはできなかった。






チカチカと点滅する通話ボタン。
そのボタンを押していいか、その電話に出ていいか、迷う。





そう。

はじめて、

自分の決断に決心に------------迷いが出た。



(弟と妹を異母兄さんに預けて一人暮らしをしようと思った時だって、
俺は帰り道一度も振りかえらなかったじゃないか)































スザクが昼間バイトで介護ヘルパーをしている今年で齢八十二を越える女性の住む家は、
都心から外れた都会の中でも田園がチラリと見える私鉄沿いの住宅街にあった。
いつも週に五回、その女性が一人で暮らすその家に電車で通う。その彼女こそが中学を中退したスザクに演劇を見る楽しさを教え、
扇劇団へ自分を裏方にと紹介してくれた人物でもある。





「こんにちはー」
「こんにちは、スザクお兄ちゃん」


「こんにちは。今日もおばあちゃんの家に来てくれて偉いね」


笹倉、と表札がかけられてある門をくぐって、夜のバイトまでの荷物をつめたリュックを肩に背負った姿で
玄関先で地面にお絵かきをしている小学生くらいの年齢の兄弟のもとまで歩いていく。


自分をお兄ちゃん、と呼んだほうの兄である少年は、スザクの来訪に目をふんわりと細めて
妹の傍からパタパタと駈け出しスザクのほうへと突進する勢いで走っていった。
反対に少女のほうは、兄のその奔放な行動にむすっと顔を拗ねたようにして
兄の手に握られていたがスザクの登場とともに投げ捨てられてしまったチョークをそのままに
無言でまたお絵かきを再開させた。

「つぐみちゃん。元気だった?」
妹のそんな様子に、兄のほうである少年の体を受け止めたスザクは、彼女に歩み寄りながら声を掛ける。
「今日はママが区の集まりで居ないから、こいつばあちゃんしか相手がいないって朝から拗ねてるんだよ。気にすることないよ」
「気にするよー。つぐみちゃんが元気じゃないと、美代ちゃんの具合もよくなんないだろ」

腕を抱きこんだ状態から、誰かさんのようにコアラの子みたいに体重をかけてくる兄に対し、苦笑する。
純朴ゆえなのか、率直な意見であるから如何様にもとれるその真っ直ぐな言葉に、スザクはただ笑うしかない。
そしてスザクは無垢な顔でそんなことを言う鼻へ、ピ、と人差し指を当て駄目だぞ、と小さく告げた。
悪意がない今の年齢で言うのならいい。だが相手が妹だからといって、家族を軽んじるような発言を
日常会話で使う人間には絶対になってはほしくない。

そんなスザクの想いは伝わったのか、伝わらなかったのか。
兄、翔太はつまらなさそうに口をへの字に曲げ、スザクの腕にしがみついていた力を緩めた。


「なんだよ、またお兄ちゃんはつぐみの味方して」
「男は大抵、女の子や自分よりも弱い子の味方になるものだぞ」
「あー、じゃあつぐみは弱いんだね」
「弱くないもん!」

ぺいっと地面のコンクリートにチョークを投げ捨てた妹は、
自分よりも先にスザクの腕にしがみついた兄を睨んで、ぱっと身を翻し、家の奥へと入っていってしまった。

「あ、こら、ばか。お前つぐみちゃんが誤解するようなこと……」
「だってお兄ちゃんが先に言ったんだ。弱い者の味方だって」
「それはね、受け取りようが色々とあって……お前たちはまだ難しくてわかんないかもしれないだろうけど、
あまり人の言った言葉を、そのままの表現で受け取るのはいいことじゃない」
「……んん?何言ってるかわかんない。スザクお兄ちゃん、わざと難しいこと言う」

翔太の見つめる眼差しに思わずたじろいだ。--------確かに。自分は子ども相手に何言ってるんだ。

「悪かった。ごめんな。確かに誤解させちゃうようなことだったかも……」
「じゃあ次はお兄ちゃんがあの馬鹿に謝る番だね」
「あの馬鹿って……妹なんだからお前がしっかり守ってやんなきゃ駄目だろ」

年相応な、子ども特有の純粋さからくる率直な思いと言葉に、スザクはどういう言葉で諭したらいいか数瞬迷う。
ぶら下がったままの翔太の頭にごつん、と握った拳を押しあて、上から、目の前の玄関を潜るまでグリグリと回すように押していく。
さすがに二歩三歩と進んで行くうちに翔太のくすぐったそうに笑う声が、どんどんと情けない涙まじりになっていった。


「う〜〜、痛い、痛い!何でだよ。俺、間違ったこと言ってないのに!」
「もうちょっと大人になったらわかるよ翔太。頭ぐりぐりされるのと同じぶんだけ、言われたほうの人は胸が痛むんだ」



きっと、今頃は走り込むように家の中へと入ってきた妹の体を受け止めて、
一体玄関先で何があったんだ、と小首を傾げてスザクの来訪を待っていそうなこの家の住人を想像しながら、
スザクはまた翔太の体を横に抱えて、『ただいま』とその玄関の敷居を跨ぎ、後ろ手に鍵を閉めた。











美代ちゃん、とスザクがそうつぐみと翔太の祖母を呼ぶのには、わけがある。
スザクが介護ヘルパーの手伝いを中学を中退した直後に細々と始めた折り、やはり現実と将来への不安が
自分の中でせめぎあうことでそれがストレスとなり、毎晩毎朝、月を見上げながら眠れない日々が続き、
また眠れたとしても魘されるように跳ね起きる日々が続いた。
そんな精神状態でいた頃、この美代ちゃんはたまたま公民館でおじいちゃんおばあちゃん相手に折り紙を折っていた所を
見つけて、捕まえてくれたのだ。

『あんた、死相がでとるよぉ』
『えっ?』
『藤喜さん、目橋さん、よく見て頂戴。この子いやに元気がないと思ってたけど、それは死相が出とるからだわ。
だってこの子が折る鶴みんな首がない』

単純明快に、美代の指差した先にある鶴たちは、その折り紙の仕上げの工程である首曲げが出来てない状態で
顔無し≠フ姿だった。
ふじよし、めばし、と笹倉美代に呼ばれた同年代の老人たちは『確かに』『そうだねえ』と口々に言って
スザクの精神状態をひどく案じた。当人は全く意識してない行動だっただけに、言われたほうのスザク自身も
手の中にあった橙色のただの折り紙であったそれに、ずっと隠していた自分への不安が露骨に現れ、そしてそれを
見透かされた気がして大変不愉快だった。

けれどそれがそもそもの切っ掛けだった。
むしろそれこそが、スザクが今日までの自分を形成できた、いい切っ掛けだったのだ。



笹倉美代とは親しくなった。
老人会の集まりで一緒にお菓子を作る時も、区の集まりでお茶を飲む時も、決まって彼女はスザクを自分の隣へと呼びつけ、
何をするにも行動を同じくした。


年は結構いってるが性格としては温厚で、近頃の同年代によくある我が儘なんて滅多に言わない気性の強さを持っていたのに、
何故か彼女はスザクに対してだけ『あれやれこれやれ』と指図をした。周りの友人たちは、彼女の若い家族たちはそれを
微笑ましく見ていた。

生来、言われたことなら従順にやる性格が幸いしたのか、結局スザクは自分を偽ることなく
その老人の集まりの中には溶け込むことができ、また、笹倉の家族たちからも認められるようになった。
翔太とつぐみという兄夫妻の子どもたちは良い例で。子どもであるその二人は特にスザクに懐いた。
母が介護にいない時はスザクがバイトに来ると踏んで、自分から率先して祖母の面倒を見にやって来る。まあ、スザクにとっては
子の面倒も美代の家の掃除や洗濯も同じなのだが。


しかし、やはり自分の中学時代を少しでも知っててくれる相手なだけに、美代の傍は落ち着く。



「美代ちゃん。こんにちは」
「あら、こんにちは。今日もお世話になりますね」


ただあの頃のスザクをスザクとして接してくれた人物というだけで、
何だか虚勢を張らなくていいと心を構えずに落ち着いて話をすることができるのだ。


「どうしてお兄ちゃんは祖母ちゃんのこと名前で呼ぶの?」
「呼んでってお願いされたからだよ」
「何だよ。お兄ちゃんは年上のいうことだったら何だって聞くんだなあ」
「何だってってわけでもないよ。それより……」

美代がスザクと翔太が歩いてきた先--------五段階にベッドの高さを調整できる毛布の下で、
いつもとは違う……少し不安げな瞳を見せていた。傍らには玄関から直行してきたつぐみが居る。
だがそのつぐみが何か言って、というわけでは、その不安はないようだった。眉を顰める、予期せぬ事態が
舞い込んだ、考えても見なかったことが目の前にある、……言ってみればそんな感じの表情で。


「どうしました。何かお使いに行く用事でもありました?」

事前に用意していくものがあればアパートにファックスが届くよう
美代の嫁に予め知らせてある。だが白髪を淡い紫に染めた美代は枕の上でふるふると首を振って
ベッドの斜め前に置いてあるテレビを指差した。


……そう言えば最近美代を扇の劇団に連れていっていない。
もしかしたら彼女お得意の我儘でそう強請っているのかと一瞬思ったが、次に続く言葉を聞いて
翔太に触れてはいないほうの手がぴくっと跳ねた。


「あのねぇ、昼間、いつもやってるバラエティを見てたんだけど、扇くんとこのあの子……えーと」
「……ルルーシュが何か」
「芸能界入りするって本当かい。何か特報で、芸人が笑っていたのにいきなり番組が切り替わったように思うけど」





(え)


振りかえり、彼女から見てすぐ前のテレビに駆けよってしゃがみ込んだ。
録画なんてする余裕もなかったことなんて解ってる。けど嫌な予感がした。どうしても自分の目で直に見て確かめたいことが
沢山あった。

画面にへばりつく勢いでスザクはチャンネルを操作する。だが、当然ながらまだ地上デジタルにも移行していない
女の一人住まいにあるテレビには、HDDにも、なんの記録も残されていなかった。












いやな予感が、する。




確かこの前別れた時、ルルーシュは近々スタジオの見学やスポンサーとの打ち合わせにテレビ局へ行く、と
言っていなかったか。まさか今日がその日だったのか?いやでもそうならルルーシュは移動する足に自分に車を出してほしいことを
頼んでくるはずだ。今のルルーシュに一人での電車は危険すぎるから。

しかし……。






「どうしたの、お兄ちゃん」
「お兄ちゃん、ばーばと花札しないの?」

テレビに向かった途端無表情になったスザクを心配する声が後子どもたちからあがる。
はっと我に返ったスザクはすぐ飛び退くようにテレビから離れ、じっと見上げたままその瞳をぎゅうと顰める
翔太とつぐみを前にして安心させるようにニコッと、どうにかして笑った。
だが自分をよく知る美代は、ベッドからスザクを見つめる眼差しを険しくする。

「おやめ、あんた……」
「……美代ちゃん」
「あんたね、また、元に戻ってるよ」




(元に戻らさせてるのはいつも周りのほうなのに、……)

何故だかこの時ばかりは、他人を信じないスザクにとっても、美代の言葉が真実な気がした。
だってほら、胸の中がざわざわとして落ち着かない。







































モニカ・クルシェフスキーの自分の持っているもので人に自慢が出来るものは、その歌唱力にあった。
当初は劇団ではなくオペラ歌手の集まりの、名前は挙げられないがある実業団に『ぜひプロでやっていかないか』と
誘われたほどであった。だがそれにうんと言わなかったのは、モニカにとってその歌唱力は人に自慢できる程度≠フものであり
演劇に執着するほどの精神には、比べようもない……ただの特技や特性のひとつに過ぎなかったのだ。


けれどある舞台にたつ役者を見てその考えが変わった。
舞台の上でならどんな特性でも一瞬のうちに究極の位置にまで高めることができるんじゃないか、と、
ある役者のほんの些細な演技に、モニカは無限大の可能性を見たのだ。

「……あ」
「?」

はじめまして。
そう小さく頭を下げたのは、若い舞台役者の中ではそこそこ名前が売れているがモニカと違って
舞台以外に経験のない、ルルーシュ・ランペルージその人で。

「はじめまして。お会い出来て嬉しいわ、ランペルージくん。そうね、ルルーシュって呼んでいい?」

握手を求めて小さく笑いかけたモニカは、ようやく、対人として、ルルーシュ・ランペルージに面識が持てたのだと、
表情にあらわしはしなかったが歓喜した。



モニカが無限大の可能性を見たというのは勿論ルルーシュの立った舞台である。
舞台美術や照明よりまず、袖幕からそっと暗闇に姿を現したルルーシュにくぎ付けになった。彼は予期せぬ動きを
なんの予備動作もなくサラリとこなし、女なのか男なのか性別が解らない着物姿の幽霊を演じきった。
日本の古い民謡の中の一節で、毎夜、林の中から村の前まで彷徨い歩くまるで行動が童でしかない性格の役を
どんな風に頭の中で料理したのか、……わからない。

だがモニカは所属する自分の劇団の団長、ジェレミアに『誰とやりたい?』と聞かれた時、真っ先にルルーシュを挙げた。



彼は外見だけでも純粋に美しい。


さすが性別不問の幽霊をやりきっただけはあって、男としてのタッパや気風は感じられないが、
撫で肩の薄い体に、顔から零れてしまいそうな真っ直ぐな大きい瞳は、黒髪の印象からは正反対なヴィスクドールの印象だった。




初対面でいきなり次の舞台の対役に『名前で呼ばせてくれ』と言われたルルーシュのほうはきょとん、と一瞬目を剥いたが、
すぐに体勢を立て直し『よろこんで』と手を握り返した。
ルルーシュの目にはモニカがただの年上にしか映っていなかった、であるから、この時彼もその直後に言い渡されたことを
予想するなんてことは出来なかった。


友人とつい先ほどまで世間話をしていたルルーシュの前に、ジェレミアが慇懃さのかけらもなく
一枚の紙切れを置く。そして、モニカは握手をした手をすっと引いて、かわりにある舞台のパンフレットを
その紙切れの横に並べた。
「私と二人舞台をする時になんの説明もしてなかったんだけど……」
「?……」
「ジェレミア先生。よろしいですよね」
「ああ。……ランドピットも承知している」

ランドピットも承知している?

ランドピット=LAND-PITはルルーシュにポスターモデルを依頼した企業の社名である。
ルルーシュは瞬時にいやな予感がし、座っていた椅子を不調法にも揺らしてしまった。だが、怯えも混じっていた
目で見上げた先ではまるで自分を安心させるようにモニカが微笑んでいる。『落ち着いて聞いて』、彼女の唇は
淡い色をしていたが、どんな言葉も躊躇いなく吐けるような、残酷な舌を持っているように思えた。


(俺が依頼を掛け持ちしてるなんて知らないはず……、何でしかも関係ない舞台のパンフレットなんて)

「……?」


まさか。


ルルーシュはジェレミアとモニカの他に、誰かこの劇団の控室に潜んでるのを感じた。
だがもう遅かったのか、恐る恐る捲ったパンフレットとその横の紙には、契約不履行も甚だしい事実が
記されている。


------------……何だって。



LAND−PIT社プロデュース新舞台化企画始動、まずは主演陣モデルによるポスター撮影


「これっ、て」
「そう。貴方はただ広告会社の宣伝でしかないって思ってたでしょうけど、残念ながら私とやる舞台はその延長線上にあるの。
整理して話すと……ポスターがまず私たちの舞台の宣伝で、そして舞台がランドピット社系列の放送局で映像として流れる、
最後には貴方と私がランドピット社の顔≠ニして、世界初の企業専属芸能人になる。……こんな説明で頭にちゃんと入ったかしら?」







































「おつかれさまー」
「おつかれさまです」



「あれ、スザク先輩、どうしたんですか」




舞台係としては年季のあるスザクを劇団員のメンバーは(年上は別だが)みんな要≠フように思ってくれていた。
とくに年下に接する時にそれを痛感する。舞台仕事では言葉で交流しないぶん、共に作業するメンバーと息を合わせて
やらなければならないことが沢山ある。




今日は主演のルルーシュが突然の欠席だということで、扇の指示のもと、スザクの箱馬講座が
年下の団員を対象に行われた。


箱馬とは舞台を組む平台(四角い板を想像してほしい)の足場ともいっていい、板と板を長方形の形に組みあわせて作る
形のものだ。ルルーシュは別だが、役者であるからといって舞台に生きる人間が作れなくていいものではない。
まだ劇団の中には作れない人間が多すぎる。舞台係と役者班の大きな壁がそれであると感じている扇は、
ルルーシュからの連絡にこれ幸い、と思い、即座にバイト上がりのスザクを呼びつけた。スザクはルルーシュのことで扇に確認を
とりたかったのだが、彼の『こう言ったらこうとしかしない』勢いに立ち向かうことはできなくて、
大人しくトレーナーの袖をまくって四時間ほど大道具制作の指導をした。
正直疲れた。……だが、扇が言うのだからしょうがない。それにザワザワとした落ち着かない気分の時は
何かに没頭しているほうが心地いい。余計なことなど考えることもなく時間は過ぎてくれるから。




そう。



(今日はもう稽古には来ないと解っていたって)





誰も居ない公民館の空き部屋で、一人窓の下に座って待っているくらいには。
……期待している。









「あ」



最後まで辛抱強く箱馬を作っていた団員とすれ違ったのか。
まだ公民館の駐車場に車があるのを見つけて走って来たのか、どちらなのかは解らない。だがスザクの目の前には
暗い部屋から見ても、廊下へと続く出入り口に誰かが立っているか、見ることができた。


るるーしゅ?


声を掛けようと窓の下から立ちあがったスザクのいる位置まで、まるで雑木林から突然飛び出してきたかのごとく、
猪のような勢いでタックルしてきた---------黒い、陰。白い鞄を投げ捨てたのか、無残に床へ転がってるそれを見て
腕の中に飛び込んできた陰が、自分が普段からずっと光のようだと考えている青年のものだと、思った。
腕に抱きしめる。
言葉が追いつかないのか、
ひいひいとしゃっくりあげて、
回した腕でしがみついた背中が唯一の温もりかのように、その腹に鼻をぐりぐりと押しつけて、
スザクのトレーナーに皺をつくる。



言いたいことは山ほどあるが、今日は何の説明も期待できないと思った。
(また無理して)


苦笑ともとれるため息を零した後、腹に受け止めた黒髪を広げた腕で包みこんで、身長差およそ10センチ近い
体の隙間を埋めようと、胸の位置まで痩躯を抱え上げた。



稽古場はとても暗くて、お互いに息する音しか聞こえない。
月は、窓の外では高い位置で輝いている。だがそれを見上げる自分たちは
月の下にある山よりもずっと低い地上でその明るさから隠れるように夜を生きている。


「ス、ザ……」
「ん?」














「キスして」



(そうか)




ルルーシュに対している時にだけ感じる安心感。ああ、その正体はそうであったのか。







暗闇の中数日ぶりに温もりを求め会ったその日、ようやくスザクは自分とルルーシュの相違点を知った。



自分は暗闇の中でこそ目を開けていられる。
ルルーシュはこの暗闇の中でしか息ができない。