しずく 10
犯人究明の目的ではなく、あくまで調査≠名目に警察が劇場へやって来たのは、
ルルーシュが舞台終了とともにやって来た救急車で病院へ搬送されてから、およそ一時間ほど経った後だった。
勿論オーナーであるジェレミアはその場にいた最高責任者ということですぐ取り調べとなった。
その隣には、劇中は薬品の調査のために席を外していた扇も居る。
扇はまず、この薬品が一般でも手に入れられやすい農薬を、果汁フレーバーと混ぜてミネラルウォーターに混入させたものだ、
と説明した。
それを受けた警察はまずルルーシュの身辺について聴いてきた。多分、誰かから恨みを買ってそんな真似をされたんじゃないかと
疑ったのだ。それに対し答えたのは、舞台の進行をすべてスザクに乗っ取られ、いつもの倍くらい眉間を険しくさせていた
ジェレミアだった。
「役者としては優秀だからな。憧れる者と同じくらいあいつの出世を妬む者は多い」
「でも関係者しか入れない楽屋にあったペットボトルだぞ。まずランドピットの社員を疑うほうが早いんじゃないか。
裏方のスタッフは忙しくて全員ステージに詰めてたっていうし」
元よりアリバイ工作をする余裕もない。
故に、扇はジェレミアの意見に否定の意を示すように、まずスポンサーとなっている企業のほうを
調べるよう警察に申告した。
「確かにルルーシュを妬む役者は多いだろ。俺だって何人か知っている。けど、当日この舞台に居たのは、
ほとんど俺の劇団か、お前のプロダクションの人間なんだぞ」
「……」
言外に『身内も疑うつもりか』と声に剣呑さを込める。
「それに役者は同業者に毒を送るようなプライドのない真似は絶対しない。役も名誉も栄光も何もかも
全部努力で勝ち取るのが真の役者だ!」
後ろで黙って聞いていたモニカが、扇の熱い言葉にまた『うっ』と押されて唸っているジェレミアを見て、
くすりと笑った。
警察側はそれを受けて、取り調べをもっと広範囲にし、劇場以外の関係者の協力も仰ぐよう
調査の方針を変えることを約束した。
まず何よりも優先すべきは被害を受けたルルーシュの一刻もはやい回復だ。
が、しかし、喉に受けたダメージは相当酷い。
舞台が終わった途端こと切れたようにモニカの目の前で意識をなくした。
……むしろ。
その場に一番に駆け付けたスザクの顔のほうがモニカには忘れられなかった。
*
「ルルーシュくんのお兄さん、あと少しで見えられるそうよ」
「……そうですか」
通話が切れたとともに、隣で様子を窺うように立っていたスザクは、自分と一緒にルルーシュに付き添ってくれた
千草に安心するよう微笑まれて、能面のように色をなくした顔からやっと笑顔を取り戻した。
その表情を見て、千草もほっと肩をさげる。
ここはルルーシュが運び込まれた大学病院。一応、ルルーシュが吐きだしたものを持って病理検査をお願いした扇が
『しずく』の終了にあわせて救急車を送るよう要請をした病院でもあった。ただの一般人がするには
随分驕った行動ではある。だがすぐに病院のスタッフが動きだしたということは……それだけ、ルルーシュが服毒したものは
素人判断では流せないものだったのだ。
「警察は……」
「今劇場のほうに向かってる。じきに扇さんやオーナーも連れてこっちに来るんじゃないかしら」
ルルーシュの意識はまだ深い底に沈んでいる。救急車の中で一度スザクや千草の呼びかけに目を開いたのだが、
たった40分の舞台でも相当体力を消耗したらしい。救急隊の中の一人が『薬だけじゃなくそっちの問題のほうが大きい』と
説明してくれた横で、またルルーシュは再びその目を閉じてしまった。
毒以外にも疲労が溜まっていたということだった。
そんな状態で意識を呼び起こしても、警察の取り調べなんて受けられるのか。
でも、犯人は……。
「もしかしてさ」
「?はい」
病院用の公衆電話の横に長椅子が向かい合うようにあって、スザクが腰掛けたその前に座りながら千草が声を掛ける。
「犯人」
「……」
「誰だかわかってる?」
心臓が止まった。
----------だが、まだ可能性でしかない答えに、自分自身『うん』と頷くこともできなかった。
だから、千草の質問に無言でふるふると首を振る。しかし、彼女の追及はそこまででは止まらなかった。
「いいのよ。スザクくんが言いたくないことなら言いたくないって拒否してくれて。
でもね、私は、なんとなく今のスザクくんを見ていて、……不安なの。喋りたくないんじゃなくて、
喋ることで誰かが傷ついてしまうのを恐れてるような。違う?」
首を先ほどより強く振る。
諦めたように向かい側で千草が吐息した。
「……そう。あまり、追い詰めないでね」
長椅子からスザクは立ち上がる。うまく千草の目も見れないまま
ぺこりと一度だけ頭を下げて、病室へ踵を返した。
「自分を、追い詰めないでね」
*
急患として運び込まれたルルーシュは当然ながら個室を割り当てられた。
入院費の上にさらに部屋料まで加算されて普通の家庭だったら痛手だっただろうが、これから来る
ルルーシュの身内である異母兄の財力・家柄であったなら、むしろこの措置は病院側から望んでしたことかもしれなかった。
-------そんな、ルルーシュがもし聞いていたら眉を顰めそうな現実的なことを考えて
自分が嫌に沈んでいるのを自覚する。
スザクはルルーシュの酸素マスクをつけて眠る横に膝をついて、その綺麗な顔が
清潔感と無機さを併せ持った白に溶けているのを、ぼうっと見た。
胃洗浄はした。そして、直に毒物に触れただろう喉の腫れも点滴による投薬で大分治まったそうだ。
医者からは『すぐに吐きだしたのがよかった』とルルーシュの喉の状態を見ながら言っていたが
自分もどうしてあの状況であれだけ冷静な判断ができたのか、少し不思議で、わからない。
『犯人、誰だかわかってる?』
「……っ」
先ほど千草から突然吐きだされた言葉に、また、その時の動揺が胸に蘇ってきた。
そう、確かに、自分には思い当たる人物が一人だけいる。
でもそんなのは自意識過剰で……思いあがりもいい、単なる思いすごしにも過ぎなかった。
(だってあり得ないだろう)
数年前の思い出に固執するという理由だけで、
何も関係ない人のペットボトルに毒を入れるなんて。
(いや、でももしかしたら……)
自分はただ忘れてるだけなのかもしれない。
彼女≠ェそんな行動に出てしまうに足る、充分な出来ごとを。
「あ」
無意識に、ルルーシュの手を強く掴んでいたみたいだった。
気付いたら紫電の瞳は真っ直ぐにこちらを向いていて、暗く沈む目線に『どうしたんだ』と
瞳の瞬きだけで、ルルーシュに心配されてると気付く。
「ごめん。目、覚めたんだ」
慌ててベッドから飛び退くのに、ぎゅ、と手首を握り返された。起きぬけだというのに
その白い手の力は意外なほど強い。
「え?」
「……」
目だけで、また、『どうしたんだ』と問いかけられる。
言葉を発してなくても何を言ってるのかが解るなんて、自分は相当末期なんだな、と思ったりしたが
逆にルルーシュのほうは、言葉にしなくても自分の表情だけで何を言いたいのか解ってくれてるみたいな気がして
「はは」
こんなことをされたら、誰だって嬉しさで笑ってしまうだろう。
……そっと腕が解かれた。
見つめてくるルルーシュの瞳が何だか少し甘えてるみたいだった。
「なに?」
スザクの横にある机を指し示して、紙とペンを寄越せというように、手を伸ばしてくる。
すぐにそれを渡すと、ルルーシュはやってはいけないことなのに無理にベッドから起き上がって
口から酸素マスクを外してしまった。驚いて止めようとすれば、まるで牽制するように睨まれてしまう。
「何を」
しようとして……。そっと窺うように見守れば、何か紙に書いていた手がピタリと止まった。そして、
顔にそれを突きつけられる。
俺は大丈夫だ
「ほんとに……?」
共演者のモニカはあんなに吃驚させるほど血を吐いておいて。
医者からは暫く声を出すことを禁止させられたほど、喉が膿んで膿んで、常人ではないほど腫れていたというのに。
もう痛くない
「それは薬が効いてるからだよ」
明日にでも退院する
「君が決められることじゃないよ。まだ検査だってあるだろうし」
はやくあの続きがしたい
「あの、って……」
あ。
ルルーシュが紙に書いた言葉に生真面目に返していたスザクの声が、不意に止まった。
(あの続きって、……まさか)
頬を赤らめた顔が、病室の白さから浮き立って見える。
ぱっと顔をあげたらルルーシュも同じ顔をしていて、逆にルルーシュのほうは自分と同じスザクの反応に
恥ずかしさが頂点に達したのか、筆談代わりに使っていた紙とペンをスザクのほうに叩きつけて、
がばっと布団をかぶってくるまってしまった。
「ルルーシュ……」
こんもりと膨れた布団の中から伸びる小さな手。その手がぎゅ、と握り締める白いシーツに皺ができている。
ほんの些細な一言で、まさか、ずっと我慢していた接触が、相手も同じくらいに焦がれていたものだったなんて
気づくことになるとは。
(思わなかった……)
だってそうだろう。
年齢的に言えばスザクはルルーシュの先輩として立っていなきゃならない立場で、
しかも今現在も予備校に通って必死に進学の道を作ろうとしてるルルーシュと比べたら、スザクは人生の挫折組だ。
中学中退の事実なんてどんなきっかけがあったってスザクからは口にしたくない。
そしてきっとそれを聞くルルーシュも自分に失望する。……例え平気なフリを見せられても
スザクのほうが嫌だった。-------だから、黙っていようと思ったんだ。自分にとってルルーシュのような演技のように
自慢できるものは、社会人として働いてること以外に何もなかったから。
(だから、いや、でも……)
『お前のこと、好きでいていいのか自信がなくなってた』
例え外面だけ見せていても、そんな臆病な自分とは違って全身全霊でスザクを好いてくれていることが解ったから、
付き合いだして三年目になってようやく、自分の部屋にルルーシュを招くことができた。
畳の上で抱き合って眠った。
ルルーシュの腕の中は心地よくて、彼が舞台のために部屋を出ていってしまった後も
座布団や布団の隅に彼の残滓がのこってないか寝転がりながら探していた。
--------それだけ、自分も好きなんだろう。
なら、
ならもう、気持ちを預けてしまったって……。
(いいじゃないか)
(きっとルルーシュは失望したりなんてしない)
どうして言わなかったんだって、責められたりはするかもしれないけれど。
「ルルーシュ」
布団に手を伸ばして、シーツの皺を伸ばすように引っ張ってみる。
先ほどと同じように呼びかけて、きっとまだ顔を赤らめたまま枕に埋まっている黒髪があるだろう
シーツのふくらみ部分に、そっと手のひらを置いて、囁くように口にした。
「舞台、成功してよかったね」
「……」
「袖で見てたかもしれないけど、僕、ジェレミアさんに『ルルーシュなら出来ます』って大見栄きっちゃってさ
……よく考えたらあの人はあの人なりにルルーシュのこと考えて中止にしようって言ったかもしれないのに
役者の意地だけ考えて押しとおしちゃった。ちょっとそれはいけなかったよね」
「……」
沈黙が部屋に満ちる。
けれど、シーツに手をおいた個所から、すっと息を止めた感触が伝わってきた。
「なんかね、昔のこと……思い出しちゃった」
ルルーシュと出会う前。
スザクが、まだ、月のように暗闇の中で咲くルルーシュを、知らなかった頃の話だ。
「僕は、生まれつきなのか知らないけど、物心ついた頃から人と付き合うのが苦手だった。
だからあんまり詳しくは言いたくないんだけど、ルルーシュも知ってる笹倉さん家での手伝いとか
扇さんの舞台の制作とか、そういうのに時間を費やすほうが好きだった。今も……多分そうだよ。
なんの利益も関係なく人と付き合う学校みたいなところって、苦手だ。こればっかりはしょうがないね」
克服することもなく、その部分だけ未熟なまま大人になってしまったから。
でも、--------ルルーシュは違う。
なんの利益も関係なく付き合わなきゃいけない人、……ではない。
「君と、舞台で出会えたことは僕にとって財産だった。これは、本当」
嘘じゃない。
嘘だらけの自分しか見せてこれなかったけれど、その中でも唯一の嘘じゃない&舶ェ。
(だから……)
だから顔を見せてよ。ちゃんと君の顔を見て言いたい、とスザクが言おうとしたら---------、
ガバッと勢いよくシーツが捲れあがって、きょとんとしたスザクの瞳と数分ぶりに見る紫電が交じわった。
「……」
少しずつ、スザクが口にした言葉の意味を理解してきたのか、またルルーシュの顔が赤くなっていく。
ベッドの上にいるルルーシュと正面から向かい合うことになったスザクも、自分が口にした言葉の恥ずかしさに
遅れて気付いていったのか、徐々に赤面していった。
先ほどとは違う微妙な沈黙が部屋に落ちる。
その沈黙があんまりにも長かったからか、
スザクが、……あ、ごめん、そんなに重い意味に受け取らないで、と自分の発言の突飛さを恥じて
言い繕うとしたら、突然、病室のドアが開けられた。
「ルルーシュッ!」
げげ。
扉の影から現れた白いコートにルルーシュの異母兄の来訪を感じたスザクは
慌ててシーツに置いていた手を引っ込めた。
声が出せないルルーシュはそんなスザクを少し残念そうに見て、はあ、とベッドに駆けよってきた兄に
溜息をつく。
反して兄その一、シュナイゼルのほうは枕の傍らに肘をつき、ベッドに乗りあげる勢いで
少し肌の色が薄くなったルルーシュの頬を両手で挟んだ。
「連絡を受けて駆けつけてみれば……控室で毒を飲まされたって本当かい?お前今年試験じゃないか。
二浪は避けたいって言ってたのは嘘だったのか」
兄弟とは二か月前に会ったきりで、ろくにルルーシュのほうから近況報告もしていなかった。
だからうるさく『痩せた痩せた』言われても何も言い返せない。しかしそれ以前に、兄弟だからって
やたら距離感の近いシュナイゼルの接触に、難しげに、険しく、眉を顰めて、頬に伸ばされた手を離した。
「なんだ、久しぶりだというのに」
「あの、すいません今ルルーシュは声を出すことを控えろと言われていて……」
「え?喋れないほど喉が酷いのか」
「膿みは点滴でひいてるみたいなので大丈夫だと思います。けど、やっぱり腫れが酷い間は
声帯も休ませてあげたほうがいいみたいで」
そうか、と横からおずおずとされた説明に相槌をうって、ようやくベッドに乗り上げていた体を離した。
このシュナイゼル・エル・ブリタニアというブリタニア一家の第二子が、扇に続くルルーシュの後見人だが
扇と違って過干渉な面が多く、あんまりルルーシュには好かれてなかった。
「お医者さまは退院はいつ頃だと?」
「喉の腫れ具合を見てですが、2、3日中には退院してもいいそうです。その間介添えをする人も必要ないみたいだし」
でも僕はなるべく居るようにするよ、と瞳だけでベッドに座るルルーシュへアイコンタクトしたら
それを受けた紫電が、シュナイゼルがやって来てから不機嫌になった顔から一転して、
満足そうに目を細めた穏やかな顔になった。
「何だ。大分元気そうだな」
「はい。さっきまで眠ってたんですけど……」
「仕事を放り出して来たのに残念だよ。血を吐いたなんて言うから、ちょっとでも可愛らしいルルーシュの
弱った顔が見られると期待したのに」
「あはは」
兄じゃなければ殴ってやろうかなんて思う遠慮のない呟きが聞こえる。
きっとこの後に続くようにやって来るのは姉のコーネリアか、その彼女と同居するナナリー、ロロといった
ルルーシュと同じ母親から生まれた弟妹たちかと、壁の時計を見上げた。
……そろそろ昼のバイトのために戻らなくてはいけない。そう思ったスザクに気付いたのか、手振りだけで
『シュナイゼルは放っといて、急げ』とルルーシュはドアのほうへ追いやる仕草をした。
うん、とそれに頷いて、手荷物を整えて退室しようとする。
あんまりブリタニア家の、特にシュナイゼルやその弟のクロヴィスからは好かれてないと自覚してるぶん
彼らが愛情を向けるルルーシュの傍には居ないほうがいいと思っていたから。
「何だ。扇が来るのを待たないのか」
「すいません。ちょっと急には仕事は休めないので……あ、でも」
シュナイゼルの横を過ぎていこうとした時に、不意に思いついたことがあって足を止めた。
自分の体に隠れて手元が見えないように、鞄の中から何か≠掴んで握った手のひらをルルーシュの膝に置く。
「……?」
なに?と目が不思議にスザクのほうを向いた。だがその手はしっかりとそれを受け取っている。
スザクはルルーシュの目線を受けながら黒髪の傍まで屈み、ごそごそと何事か呟いて、シュナイゼルが
痺れを切らさないうちに病室から出ていった。
「どうしたんだ、ルルーシュ」
兄の目から渡されたものを慌ててシーツの中に隠す。
不意打ちに耳元にスザクが囁いていった低い音が、徐々にルルーシュの耳を赤くしていって。
スザクが帰った後で親族がかわるがわる様子を見に来てくれたが、……悪いとは思っていたけれど、
大切な妹や弟たちの心配する声さえろくに頭に入ってこなかった。
(部屋の、鍵だ)
……スザクの住んでいるアパートの。
「……---------」
『次のオフが重なった日に、しよう』
そんな、たった一言だけで、相手のことに夢中になってしまったルルーシュを責められる人は誰も居ない。
*
最近ギアチェンジが鈍いワゴンを飛ばすように走らせて、慌てて笹倉の家に向かった。
……今日は確か孫の翔太もつぐみも居なくて、美代一人が過ごしているはずだった。
なら、この日スザクのする仕事は美代の介添えをすることだけである。普段ならつぐみと翔太の相手まで
嫁が炊事などしている代わりにしなくてはならなかったが、今日は普段の仕事の中でも楽なほうである。
まあ多分、美代がスザクの中で気心が知れた相手だからに他ならないが。
「?」
玄関からただいま、と挨拶をして、靴を揃えて入る。
いつもだったらしわがれた声で美代のおかえりーという声が聞こえるのだが、今日はしなかった。
すぐに居間のほうに急いで彼女の様子を見に行く。
「あ、なんだ」
一瞬心配した事態にはなっていなかった。美代は黙って座椅子に背をもたれて外を見ている。
そろそろ散歩に行きたい時間かなあ、と思ってスザクがその隣に静かに座って彼女の顔を見ようと
覗きこんだら、……美代は皺の刻まれた口を引き結んで、ふるふると拳を机の上で握り締めていた。
何があったんだろうか。
「美代ちゃん?」
彼女が望んだ呼称で、耳元に届くよう呼び掛ける。
すぐにぴくり、と手が動いて、ゆっくりと視線が重なった。辛そうに寄せられた眉が
スザクの胸にヒビをもたらす。
「どうしたの」
恐れずに、どうしてそんな状態になったのか様子を訊けば、美代ははっきりとした口調で
言った。
「さっきまでここに詠子ちゃんが来てて話をしとったんだが」
「……詠子、って……」
(藤宮)
「あの子が言いよったんだ。すごく落ち込んだ顔をして、お前さんのこと。そして、お前さんが仲よう
付き合っとる男の子を傷つけたとかなんとか……」
「……、どんな風に?」
「お前さんが私と知り合う前、あの子がお前さんと仲良かった頃の話で……、
詠子ちゃんが言っとった、『お前さんに忘れられて悲しいことがある』って」
居間の柱にかけられた時計が、ゴーン、と鳴った音が、いつも聴いてる音のはずなのに
ひと際大きく聞こえた。
(やっぱり……)
僕は忘れてることがあるのか。
-----------だから彼女は再会した時、あんなに不安そうにしていたのか。
「美代ちゃん。それで、何て言ってたの?」
「また街を出ていくって。……ここに居るのは辛い、と」
そうか。
昔の思い出を引きずるように生きてきたのは、自分だけじゃなかったのか。
「藤宮は……それで?」
「わからん。わからんけど、……私は話を聞いた時無性にむかついて
今までずっと岩のように座っとった」
「膝が冷えちゃうよ」
傍にある毛布を慌てて引き寄せて美代の腹の上に置いた。
そうしたら、美代の皺がれた手がスザクの手に重ねられる。彼女は本当に腹が立ったように
唇をまた引き結んで、ぎゅっと背を縮こまらせた。
「お前さんは優しいからね、……あんな子に優しくしちゃ駄目だよ」
「……」
「昔のことを覚えてない、なんて、今まで逃げてた子が言えたことじゃないんだ。
人間誰だって古いものから忘れてくんだよ。だから新しい人と付き合っていくんだ、いけるんだ。
誰もそれを責められるもんじゃない……」
「そうだね」
話を聞きながら、スザクも手を伸ばして美代の背を撫ぜた。
彼女のフラストレーションが少しでも静まればいい、と。擦って、擦って。擦って。
そして、
「藤宮の話をずっと聴いててくれたんだ。美代ちゃん」
「ああ、そうだよ」
「じゃあ、次は僕の番だね」
そう言うスザクの声は、美代の耳に届いたのかは解らなかった。
何かの覚悟を決めたかのように美代の傍に寄り添ったままその日を過ごしたスザク。
だがそれから数日してルルーシュが退院した時、笹倉の家にも、やたら深夜に繁盛する料理屋にも
スザクは居なかった。
スザクから貰った鍵でアパートのほうも覗いてみたけれど、
そこは二人で夜を過ごした状態のままになっていて、
スザクが帰って来た痕跡自体、残されていなかった。
なんでもっと警戒していなかったんだ。
それが大事なものであればあるほど、手を離さずに、しっかりと持っていなければならないものだったのに。
--------------ルルーシュがそうしてスザクの失踪に気付いたのは、
付き合い始めて三年目になって、ようやく心を許してくれたというように合鍵を貰った日から
一週間経った後たった。