ルルーシュには弟と妹がそれぞれ一人ずつ居る。弟のほうがお兄ちゃんで妹が末っ子の、三人兄妹だった。
ルルーシュが中学へ通っていた間は、三人揃って親が居なくても児童施設の厄介になることが出来ていた。
しかし、とうとうルルーシュが卒業する時、施設のほうから 『高校への進学は止して』 『三人ともに施設から出ていけるように働いてくれないか』 と、追い出されてしまうことになったのだ。
自分一人ならば何をしたって生活出来るが、まだ現在も義務教育を受けている弟妹たちはそうも行かない。 ルルーシュは声を大にして施設の職員や行政に訴えに行ったが、
返ってくるのは『予算がないから』という納得もしえない言い分だけだった。
仕方ないから腹違いの異母兄たちへルルーシュは相談をしに行った。ルルーシュの母親は自分たちを生んだ後で 父の元から離れたので、戸籍上はあかの他人だったが。その他人に頭を下げ、『どうかナナリーとロロだけでも 置いてやってくれませんか』と頼みこんだ。
どうにか弟たちだけでも”まだ中学生だから”という理由だけで引き取ってもらえるようになってから、ルルーシュは 一人暮らしを始めた。生活費のほうは自分一人のことを考えるならば別に遣り繰りするのに難しさは感じられないし
だからバイトなどもそれほど切り詰めてやる必要もなかった。元々そんなに支出は多いほうじゃないし、たまのご褒美に 外で弁当を買ってきたりするくらいの生活があれば、それでいい。
そしてそんなご褒美が必要な日は、決まって月に一度やってくる。
月末に近い第三週目、木曜日。ルルーシュが毎月憂鬱を感じる日だった。 (何故か?) それは施設に居た頃から世話になっている劇団の練習日と、高校の放課後を使って行われる特別指導、その二つが重なって更に、
生徒会の会議があったりするからだった。
トリプルに忙しい曜日である。 なのでこの日はいつもルルーシュは、真っ赤にカレンダーを塗りつぶしていた。
覚束ない足取りで帰る道の途中で、味はいいし価格は安いしおまけに量も多い自営業の弁当屋がある。
ルルーシュは決まってその日に立ち寄り、弁当を注文した。
今日は何にしようかな、おまけに何かつけてくれるかな、 とか期待して『こんばんはー』と道に面しているカウンターへ顔を出せば、いつもの親父はおらず、
そこには最近劇団に大道具係として入ってきた新入りの、枢木スザクの広い背中があった。
「おい、これ持って帰っても構わんよ」
奥の調理場から声が聞こえる。
「……いいんですか?出し巻き卵なのに」
「大丈夫。もうお客さん来ないし」
「はあ……」
どうして背中だけ見ただけでスザクだと解るのか?それは、人を覚えるのが苦手なルルーシュでも一発で名前が入るくらい この男の体格がその背中だけがっしりとしているからだった。
そんなことより、
(何てことだ俺の卵が……っ)
突然現れた身内の存在にルルーシュが硬直している合間にも、スザクは自分の鞄に卵を入れようとしている。折角の自分の一ヶ月に一度の 楽しみが。 卵が一等好きなのに、それを注文しようかなとか思っていたのに、全くひどい話である。
店主も包丁を磨いてないで、 カウンターに背伸びしている自分の存在に気づいてくれればいいものを。
「あ、あああの!」
「……?」
先生っ俺を見て下さい!という必死さでルルーシュは手をあげ、声も出した。 そうまですれば流石に異変(?)に気づくのか、ようやくスザクが振り返って。
「あ、ルルーシュ」
「昨日ぶりだな、スザク」
まさかお前がここで働いてるとは思わなかったよ……と、振り向いてくれた彼へ安堵の笑みを見せた。
”ルルーシュ” ”スザク” という呼称は、何も呼び捨てであるからといって、特別な人間であるとか、仲が良いとか、そういう証明ではない。
劇団という親密な空間に一週間も居れば、どうしたってそんな呼び方が定着してしまうというものなのである。 まあ、団長であり親代わりに近い扇や千草などはその限りではないが。
「夜も働いてるのか?」
「うん。今日はたまたま扇さんに連絡して、稽古のほうは休ませてもらったんだけど」
「いいよ別に。まだセリフ読むくらいしか新しい台本のほうは進んでないし。……それより」
ルルーシュは手をついて、またぐぐっと背伸びをした。どうしてかここの弁当屋のカウンターは、平均より高い気がする。それほど 身長が低いわけではないのに、カウンターが背伸びをしなければ額にごつんとぶつけるくらい、高く設置されている。
(せめて、ひもじく見えないよう、言ってみるかな……)
まさか『その出し巻きの為に一日頑張ってきたんです』なんて、自分以上に働いているスザクには言えない。弁当屋の主人の 気遣いから出されたものであるだろうし。だから、
「その、さ、……」
「ん?何、注文?」
安くしとくよー、と朗らかに言われた。違う、そっちじゃないとひと睨みして、顎を不親切な高さを誇るカウンターの上へ乗っける。
スザクがその行動を深刻に受け取ったのか『え?』と、開けられた窓から首を出してきた。
「その出し巻きと同じようなさ」
「うん」
「残り物とかって、……まだ沢山ある?」
後ろでしょりしょりと包丁を研ぐ主人には聞こえないよう、こっそり耳打ちをする。スザクは声に出さず肩を揺すって 『あるよ』と瞳を和やかに細めた。
「何がいい」
「……俺、ここのウインナーが好きなんだよな。あ、あと切干大根とかあったら涙が出ちゃう……」
「健康的だね。ルルーシュは好き嫌いとかないの?なら何でも詰めるけど」
『店長余り物が嫌いなんだ』とパックを用意しながらそんなことを言ってくれる。
「だからきっと喜ぶよ。言い方悪いけど、ルルーシュが片付けてくれるなら」
「そんなの、大喜びだよ。是非俺を使ってくれ。夕飯用意するのも面倒なんだ」
アルミのトレイから箸で取り出したものを、他のおかずと混ざらないように分けてパック詰めしてくれるスザクの前で ルルーシュは嬉しさに数回撥ねた。
その様子にまたスザクは声を出さずに笑って、おまけにデザートとしてみかんも付けてくれる。 肩にかけたリュックから財布を出し『いくら位だ?』と暗に示せば、スザクは手の動きを止めて『いらないよ』と苦笑した。
「喜ぶって言っただろ。店長が」
「でも余り物だからって一応商品だろ?困るよ、お代も払わずに貰うのなんて……」
食事を用意するのは面倒だが、金に横着であったりがめつかったりするのは嫌なのだ。 ルルーシュはスザクの前で両手をぶんぶんと振って拒むのだが、ビニールパックおよそ三個分を入れた袋を差し出す彼の腕は、
引っ込んでくれない。 とうとう降参したように、もしくは空腹に耐え切れずに、ルルーシュはそろそろと腕を伸ばしてそれを受け取ってしまった。
「ありがとう……」
よく見たら煮込んだ豆腐まで別パックに入れてあるのが見えて、涙が本当に出そうになる。丁度冬でもあるし、帰るまでのカイロにもなって 丁度いい。
ぼそりと呟いてでしか言えない感謝の言葉であったが、差し出したほうのスザクは充分すぎるというほどの笑顔を見せてくれて、
黙ってカウンターの窓を閉めた。
また稽古で、と互いに手を振ってその日は別れて。 パタパタと無人の道路を駆け出しながら、ルルーシュは気分よく、家を目指していった。
何故、扇いわくホームヘルパーの補助もして、おまけに夜のバイトもして、それでどうして裏方までやろうとするのかは 自分には解らなかったが、でもこの時から、スザク個人を見てルルーシュは『いい奴だなあ』と思っていた。
彼の器用さの理由も、 普段稽古以外では何をしているのかさえ、知り合った当初は興味なんてもっていなかった。 けれどルルーシュは後で思い知ることになる。
後で……というか、それほど期間も置かず、すぐに。スザクを意識するようになったのだ。 元々、急遽降板した女優の代わりに、ルルーシュが代理を務めた初の主演舞台で、スザクの的確なサポートを受けて無事に成功したことから
尊敬の念のようなものは抱いていたのだ。 が、それとは種類の違う……もっと発展した感情、あるいは、あまり人には抱かない気持ち。 -----------他人のような親族に頭を下げてでも弟妹の処遇を案じたルルーシュが、まだ向けようもなかったもの。
恋だった。
そうして月末の木曜日は特別な日になった。 嫌なことがあっても疲れていても、例え稽古でスザクと会っていたってルルーシュはその弁当屋へ通った。
背伸びをしてカウンターへ顎を乗せれば、いかつい顔をした包丁を研ぐのが趣味な店長か、 その店長のお気に入りらしくて、シフトをばしばし入れられているスザクがすぐに顔を出して、
『お疲れ』と言ってくれるからだった。
その声と笑顔が心地いい。
とりあえずの名目として『俺は”ここの”弁当屋の味が好きで通ってるんだからな』という態度を示すように
この店配布のポイントカードを出して、いつもの、と口にするのだ。咽喉を痛めない為にマフラーで口元をすっぽり覆うルルーシュを見て
スザクはまたにこりと笑い、出し巻き卵と切干大根を入れたパックをカウンターへ置いた。
「今日稽古で会ったんだから、その時に渡しちゃってればよかったね」
「そんな。……荷物にもなるしバイトのほうが大変になるだろ。俺はここが帰り道だから、別にいいんだ」
「そうなんだ」
だから通るんだね、と頷いてポイントカードに日付とハンコを押す。一枚溜まればそれでひとつの弁当がタダで付いてくるという おまけ券だ。あと五つですべて埋る。
「もう少しだルルーシュ」
「ああ。こつこつ貯めてくのが俺の数少ない趣味の一つなんだ。地元のスーパーのも持ってる」 「几帳面なんだね」
あはは、と笑うスザクは穏やかに、手袋をしないルルーシュの手をとってカードを返してきた。一瞬触れた暖かい皮膚が焼けるように 感じる。びくっと背が震えて、思わず目が点となってしまった。……おかしい。こいつはただカードを返してきただけなのに。
その為に触れたってだけなのに。
「……そうだ」
カウンターの中にいるスザクが、そんな自分の呆然とした様子にも気づかないで、店の外へと身を乗り出してきた。 端に手をついたスザクは、右と左と首を動かして、真っ暗な店の前辺りを翡翠でうかがっている。
『どうしたんだ?』と 声を掛ければ、突然神妙になった表情で『気をつけてよ』と見つめてきた。
「最近ここ通り魔が出るんだ」
「え」
「近くに公園があるだろう。何でも、被害にあった人が言うには若い男らしいんだ、そいつ。金銭目的なのか猥褻なことを したいだけなのかわかんないんだけど」
「ああ……」
「君いつも帰りが遅くなるだろう。稽古とか学校とかがあるから仕方ないんだけど。……とにかく気をつけたほうがいい。 なるべくならこの道も通らないように」
『店の余りものは稽古場で渡すよ』と、ルルーシュに厳しく告げるスザクはカウンターの奥へと引っ込もうとした。 そりゃ、役者なんだから身体を大事にしなくちゃならないってのは、理解してる。
けどそれとルルーシュがこの店の道を避けるのとは、また別の話だ。
どうして月イチの楽しみを不審者ごときに棒に振らなきゃ ならないっていうんだ。 ルルーシュはスザクが去ってしまうその前にぶんぶんと首を振って、渡されたカードをぐしゃりと握りしめてしまうほど力を入れて、 一方的に注意を言った彼に拒否を示した。
誰だって楽しみを潰されるのは嫌だろう。 折角、折角弁当にだってありつけたっていうのに、そのついでというように舞台では厳しい様子と、反して少しだけ甘い顔のスザクと
対等に話せる時間が持てたというのに。どうして……。
いくら役者として自分を心配してるからって、『来るな』はないだろう。この俺に対して。
「ルルーシュ?」
首だけ振って大人しくなった黒髪に目をやり、不思議に思ってスザクは声を掛けてきた。けどルルーシュは無言になり、そのまま顔もあげずに
カウンターの前を去っていく。『あ!』とその姿を引きとめようとすれば、まるで逃げるようにルルーシュは駆け足となって、
店の前の明るくなった場所から外の暗闇へ走って行った。
(腹が立つ)
(ムカつく)
(人の気も知らないで!)
暢気に笑う彼の笑顔は稽古場で評判だった。----------とくに見習いとして入っている中高生あたりの女に。
スザクは人当たりがいいから、こんなルルーシュに対してもお弁当を気にしてくれたりする持ち前の優しさで、そんな女子たちにも
愛想を振り撒いている。……ルルーシュが気付きはじめた恋情には見向きもしないで。
きっと彼にとっては自分の存在なんてのはその他大勢でしかないのだろう。
長くこの世界に居続けたいと思うなら同業者の中でカノジョは作るな、と主宰の扇からは耳にタコが出来るくらい聞かされていた。 『どうしてだよ』と一度訊いてみたら、当時売れっこの女優であった千草と籍を入れたなんて素知らぬフリで
『お互いのことを日常のなかで忘れてしまうからだ』と言った。
舞台は合う人間にとっては麻薬のような魅力がある。
つまり彼は 舞台に打ち込むルルーシュの邪魔になるのは、同じく舞台人であるスザクであると言いたいのだ。
『……大事にされないぞ』
『なんで』
『見りゃわかるだろう。役者だけでなく裏方にまで礼儀を使って、誰もしたがらないような大道具の準備までしてくれる。 そこまで出来る彼が一個の人間であるお前に恋愛感情なんて向けるわけがない。よくて友達、わるくて他人だ。舞台仲間でいるのが ベストだと思わないか?』
『扇さん……、それ、俺が主演代理だからって言ってる言葉じゃないですよね』
睨みつけるような眼光で見上げたら、扇は心外だな、とでも言いたげに口をへの字にひん曲げた。……大事だからだ、と呟くように答える。
『あの女優の二の舞だけは御免だ』
『え?』
『お前が代役をやらなきゃなんなくなった奴みたいに、本番を迎えられなくなるくらいまで色恋沙汰でボロボロにされたくない……。 元より、お前はスザクくんが好きなのかもしれないがあっちは何とも思ってないさ。態度からだってわかるだろう』
確かに、彼は自分を最初から”ルルーシュ”と呼んでくれたが、それは扇や千草、他の仲間がルルーシュをそう呼んでくれていたからだ。 それを考えると無性にさみしくなって、どうして最初から他人として出会えなかったのか大してない想像力を働かせたくなってしまった。
黒いジャージに袖をまくって、扇から渡された金槌を嬉しそうに手にしたくせっ気の笑顔が忘れられない。
スザクの関心が自分に向くとは夢にも思えないが、弁当屋で迎えてくれる時だけは、---------その笑顔はルルーシュ専用のそれだった。
(だから……)
だから通っていたというのに。 夜道が危ないって、それだけでフラれてしまうほど自分の存在は薄いものだというのか。 自分にとってはこんなにも分厚い存在だというのに。
「スザク……」
蛍のように道を照らしてくれる白色灯の間を歩きながら、見上げた空に月も何も見えないことに絶望してつい口から彼の名前が零れた。 誰も道端に居ないから出来たことだが、トン、と背中を軽く叩かれて慌ててルルーシュは振り返る。
何とオレンジ色のエプロンをつけたままのバイト姿のスザクが、白い息を吐き出して、そこに居たのだ。
「ルルーシュ」
「何で、付いてきて……」
「追っかけてきちゃ悪い?面倒のかかる奴だからね、君は」
この間やった舞台の初日並みだよ、と自分と数歩距離を置いたスザクが、口を尖らせて言った。
「心配した」
「……え」
「さっき言っただろう。ここって本当に不審者が出るんだ。まだ被害届までは出てないから警察もパトロールしてないけど、 その状態だからこそヤバいんだ。うちにも『嫌だな』って言って、弁当屋の前の道を通るのを避けるようになっちゃった人いるし、
そうでなくても、もし君が襲われたりしたら……その、……だって夜道だろ?君が普段ここ通るのって」
「まあ、木曜日と稽古が遅くまでなったりした日だけだけどな」
「うん。だから、……一人暮らしだっていうのもあるし」
「ああ」
「……心配した」
はあ、とまた息をついて、心配したんだよと繰り返す。 薄着にエプロンだけという姿は寒いんじゃないかと思ったが、そんな場合じゃないといった真剣なスザクの表情があって 雑巾のようなざらついた面で心を搾り取られるような胸の痛みに、数瞬眩暈がした。 くらくらと。
(自分の言ってることがわかってるのか)
----------眩暈がした。 空には月が出てない。天気予報では明日は雨なのだそうだ。だからきっと雲に覆われた上空は、 唯一の深夜の光源である月を隠してしまっているのだろう。
もし、いまここに頼りない存在ではあるが白色灯が自分たちの上になかったら、どうなっていただろうか。
ここまで走ってきて上気したスザクの頬も、かじかんで少し色が薄くなった腕の色も、自分をじ、と見下ろしてくる翡翠の目も、 全部ルルーシュには見えなくなっていた。
(よかった)
変態は出るだろうが照明は明るいこの道が、ひとつでも電灯が切れてるような管理不届きな状態でなくて 本当によかった……と、握りしめられたように傷む胸と合わせて、とても安堵した。記念ともいうべき彼の焦った表情が見えないなんて、
泣きそうになる意味がない。そう、今とても泣きそうなのだ。いつも変わらずくれる弁当の残り物と、『おつかれ』と言ってくれる 労いの言葉。--------稽古場に居るような女子たちと変わらない扱いを受けているのかもしれないが、それでも彼は自分にとって特別だった。
スザクが自分を特別にしてくれる日なんて夢見るよりも、その事実だけ胸に閉じ込めておいたほうがいい、ずっといい。どうしてこの変態が出そうな 窮屈な道で、気付くことができなかったのか。
(ごめん、扇さん)
恋がしたい。 スザクと。 例え実らなくても、--------彼と。
自分が俳優だということも忘れて。
「ルルーシュ?」
バイトが終わるのがもうすぐだから部屋まで送ってくよ、と耳元にずっと喋りかけていたスザクが、 不意に沈黙したルルーシュに気付いて声をかけた。
窺うように背筋を曲げて、口元までマフラーで隠してしまった顔を覗きこむ。
数歩開いていた距離が縮んでゼロになった。
そこで。 俯いていた紫電があげられて、スザクは腰ごとすっぽりとルルーシュのコートに抱きこまれた。
えっ、と身構える。
けれど、 胸の中に顔を埋めた黒髪は、いやいやをするように首を振って更に腕の力を強めた。……どうすればいいかスザクは解らなくて ただならうようにその背中と頭に同じく腕を回すしかない。 よく見るとルルーシュの耳は赤い。 どうして。
「スザク……」
囁くように小さな声で呼ばれる名前。ん?と首を傾げて、撫でた黒髪をまた覗くように顔を近づけたら パッとルルーシュの顔もあげられた。
睫の長ささえわかるほど顔の距離が近くなって、さすがのスザクも少し慌てる。 それでも、ルルーシュとしてはようやく触れられた体にもう後悔はないというように頬を赤くして すぐにも重ねられそうな唇にではなく、その上にある鼻の頭に背伸びをしてキスをした。
事故ではない、故意である。
友人でも劇団の仲間でもないのだ、というこの時まだ高校生だったルルーシュがした精一杯のアピールは通じたのかは その時のスザクの反応だけでは解らなかったが、彼はキスをされた時はただルルーシュ同様顔を真っ赤にして、
後ろにある電柱にしたたかに頭を打ち付けただけだった。
後に訊くと、この時あんまりにも意外だったルルーシュの行動は スザクに軽いトラウマを植えつけたらしい。
「な……何するの。ルルーシュ」
背後も確認せず飛びのいたせいで後頭部にコブを作ったスザクは、思いきりよく行動した後は螺子が切れたロボットのように 動かなくなったルルーシュに、一応そう声をかけて。
しかしあまりにも感情に走ったことをしてしまったことに気付いた当人のほうは、サァッと青褪めた顔をして、『忘れてくれ!』と 叫んでその場から逃げた。
ここからまともに会話をするようになるのは、実に半年後のことである。
その時になってようやくスザクのほうから何がしかのアピールがされるようになった。
ルルーシュに貴重品を預けるようになったりルルーシュの体調の変化に一番に気付いたり、 はたまたルルーシュの弟妹に会いに行ったり。
……彼が舞台へのプレッシャーと過労で倒れた時は、 バイトを蹴ってまでも見舞いに駆けつけたり。
けれど扇が評価を下した『スザクの特別にはなれない』という言葉は、実際にはルルーシュにも当て嵌まることだった。 それを実感するのは正に、スザクのほうからルルーシュへ告白をしようと決めた前日である。
告白のタイミングはそれぞれ重なっていたのだが、ルルーシュからしたスザクへのそれは、ある種、異様だった。
スザクは至極シンプルに『好きだ』と告げてきた彼に『うん、僕も』と言おうとした。しかし相手に妥協させない鋭さで目を細めた彼は
自分の告白を聞いてくれるスザクに『本当か?』と首を傾げたのだ。……役者で演じてる別の俺自身たちが、お前は好きなんじゃないのか、と
問いかけてでもくるような視線もつけて。
それにすぐかぶりを振って、スザクは答えた。頭の中ではもうずっと前からルルーシュは自分を好いてくれていたんだなと感じながら。 それでも。
『僕が好きなのはルルーシュだ』
『……うん』
『”ルルーシュ”が好きだ』
『……うん……』
『君は?』
お前はどうなのだ、と逆に見返す翡翠で問い返した。
『稽古場に居る僕を、少しでも頼りがいがあると言ってくれたよね』
『……ああ』
『君こそ、ちゃんと”僕”を見て好きだと言ってるのか』
『……』
『それは、……いや今も、その”僕”は、誰かを演じてる”僕”かもしれないじゃないか』
それでも好きと言ってくれる?……と、広げた手のひらを胸の前まで伸ばした。
了承、とするならあちらからも伸ばされるはず。か、もしくは意味がわからないと向こうが断じれば、ルルーシュは黙って 背を見せるだろう。
スザクは少し預言者にでもなったような気持ちで、先行きはどんなものになるか予想してみた。けれどそのどれとも重ならない行動を ルルーシュはとった。
いつしかの弁当屋前の道でされた時のように、腕を広げて、黒髪をぽすんと肩へと押し付けて、スザクを抱き締めてきたのである。
『うそ』
『何が?』
『まさか、今日も、……そうされるとは』
『嫌か?』
『そんなことない』
『-----------ならいいじゃないか』
好きだよ、と胸のシャツがルルーシュの言葉を吸いこむ。稽古場の中央で、ビニールシートを広げてベニヤに釘を打ちつけていた。 スザク一人で徹夜をするつもりがルルーシュまで付き合ってくれた告白の前日、……いや、窓には朝日が昇っているから
もう当日だろう。やっと二人がお互いにお互いのことを特別視できた、記念すべき日。恥かしいことに今もスザクはその日のことを 特別だと思っている。
昔は慣れてない人同士の接触に驚いてしまい後ずさってルルーシュから逃げようとしたスザクはルルーシュ本人にいらぬ誤解を させてしまった。
しかしそれがどんな効果を生んだのか。自分たちはお互いに諦めることなくずっと友人で居た。時間をかけて 共有する時を増やしていった。それがよかったのかもしれない。
まだルルーシュからしても、スザクからしても、自分たちが出会った以前のことは話しにくい状況ではあるけれど 何故か自然と、二人ならなんでもうまくいくんじゃないかとそういうような気になっていた。
告白した日。抱き締めてくれたルルーシュに昔以上にドキドキと胸を騒がせたスザクは その日一日誰とも顔を合わせられなくなったくらい挙動不審だった。
ルルーシュも男前に踏み切ってみたが実はスザクと同じ状態で。そんな二人を扇が見て気付かないはずがない。
大事な劇団の稼ぎ頭が、劇団を支えるエンジンともいうべきスザクと付き合うことになってしまった。
どぎまぎと、周りにそうと知られない程度で逢瀬を重ねる二人の団員に、主宰でもあり保護者のような立場だった扇が 他人ごとのように受け止められるはずもないし、二人の仲を公認できるわけもない。
……はあ、と、妻も友人も見ていない 稽古場とは少し離れた喫煙所で溜め息を零した。
(裏方と役者の恋だなんて聞いたことがないぞ)