「あれ?ランペルージくん、絵画科の倉庫に何か用事?」
「え、あ……はい、まあ、ちょっとイーゼルを使いたくて」

そう、と頷いた美術学部の絵画科専属の事務員は、自分とは反してエプロンをつけていない
ポロシャツに袖をまくっただけの格好のルルーシュを怪訝な顔で見つめた。
身長としては同年代の男と同じくらいある彼と、平均的な女性と変わらないその事務員との目線の高さは
頭ひとつ分ほど違う。
だがルルーシュはとても腰の低そうに……自分はもう絵画の人間ではなく史学科の院生としてとても慇懃に、
まるで妹を抱え上げるのと同じ慎重さで、倉庫から引っ張り出してきたイーゼルを持って、事務員に頭を下げ
渡り廊下を歩いていった。






























「枢木が絵画の授業に出ていない?」
「……ああ。教務のデータベースを見るとちゃんと履修のほうはされているんだが。つまり、登録だけしてあるのに
出席だけはしていないような形になっていて」
「何で」
「造形には絵画の実技は必要ないと考えてサークルのほうに顔を出しているんじゃないのか?」


最近お盛んらしいからな、と笑う星刻の今日の食事は、誰が用意してるのか大体見当のつく、花柄の包みにまかれた
和風の食事が中心なお手製の弁当だった。反してルルーシュが口にしているのは、こしあんと抹茶クリームをサンドしてあるパンだった。
なんでも学食の新商品らしく、授業に行きがけに買いに言ったら『タダだから』といってそこで働いてるらしい
エプロン姿のおばちゃんに渡されたのだ。そんな代物を、自販機で買った牛乳でぐびぐびと流し込んでいく。

星刻は淀みない口調で淡々と先を続けていった。

「絵画の先生は造形科の面子と違ってやたら保守的だからな。学内政治のほうに熱をあげてる輩のほうが多い。
かえって、職人あがりの講師が集中してる造形科のほうが、枢木くんにとって居心地がいいのかもな」
「それは、あると思う」
ごくん、と飲みほして、口直しに星刻から進呈された蜜柑を一粒食べる。手作りの弁当に茄子の煮びたしがある所からもそうだが、
フルーツに大粒の蜜柑までついてくるなんて、星刻の身の回り(?)の世話をする人間はとても甲斐甲斐しい人物らしい。
……それがまさかスザクの悪友である金髪のパイナップル頭だとはまだ知りもしないルルーシュは、
星刻の口にした絵画と造形のとことは違う教員の気風に対し、『そう考えると史学はフリーダムだな』と口にした。
「どういうことだ」
「うちの先生や、そこにいる事務員、技術員も、他の学部から言われてる通りまるで田舎のじいさんのような性格をしてるからな。
取材や調査以外に外へ出ていくこともしないし、図書館に自分のベッドでもあれば助かるし、ここで住めたら素敵なのになあ、と
語るような芸術バカばっかりだから。自分の世話した生徒が将来どんな作家になるかを見極めるために、過酷な課題をぼんぼん出す
絵画とは、……全然違うだろ」
「そんなに史学は暢気なのか?教え子が美術館に務められるようにとか、便宜をはかってくれたりしないのか」
「ないな。というか史学自体、学芸員になりたいと思う人間は全体の2割くらいしか居ないんじゃないか。
殆どは人と会話がしたいサービス業とか教員に行く。学芸員は大学院まで真剣に考える奴が、自分一人で美術館を選んで、
研究しながら就職試験を受ける。海外に留学する奴も居るぞ」
「……隠遁だな。人の目ばかり気にしなくちゃいけない絵画とは違って、気持ちの面では楽そうであるが」
「ああ。だから俺は学部までは絵画だったけど、大学院から史学に入って良かったと思ってる。先生が誘ってくれたのが
大当たりだったんだな」
嫌みともとれる長い言葉をつづけてきた後に、黙々と租借して相槌を打った星刻へ笑顔でルルーシュは微笑む。
実技と学術系の違いは正にそこで指導する教員にある。……まとめると、ルルーシュの持論はそれであった。
「枢木くんは、絵画の先生たちとはソリが合わないのか?」
「星刻がさっき言ったサークルに顔を出していることも関係してると思うけど、大まかなサボリの理由はそれじゃないのか?
造形の教員や技術員とはよく飲みに行く、という話は聞くけど、絵画の生徒と……ってのは聞いたことがないしな」
「ルルーシュ。お前絵画の先生とは一年前まで付き合いがあったんだから、ちょっと聞いてみてくれないか」
「----------また何で俺が」
大学院になって史学にかわったことを、あそこの教員たちはあまりいいように思っていない。
だからルルーシュ自体も距離を置いておきたいのだが……。
「最近は枢木くんのいい兄貴分じゃないか」
「兄貴、じゃない。あんなのの兄弟になってたまるもんか。飼い主だ飼い主。あんな駄犬には飼い主で充分」
ふん、と不満を一杯にこめた息を吐き出すと、パンが包まれていたビニールを拳の中にくしゃくしゃに丸めて
ルルーシュは星刻を残し、休憩室を後にした。
時計を見る。教務課の一室である休憩室から一階へと降りて、学生でにぎわってる受付の前を通り過ぎ深くため息をつく。
丁度携帯のメールででも呼びつけて話をしようと思っていたとうの本人が、くるりといいタイミングで振り返ってルルーシュを見つけたのだ。

(どうして会いたくない時にサラリと出てきやがるんだ……)

特徴であるくせっ毛と、実技の授業でもあったのか緑色のツナギに袖をまくった格好の彼が、正にルルーシュが言ったように
犬そのものの喜び方で駆けよってきくる。そしてルルーシュの気持ちも知らないで腕なんて広げて飛びついてくるものだから、
ルルーシュは迷うこともせず、手にしていたビニールゴミをそのくせっ毛めがけて力一杯叩きつけた。












「先輩。何持ってきたの」
「見てわからんか。イーゼルだイーゼル」

さぞ不本意そうに、先ほど堪えた分と合わせてため息を吐きだして、絵画の倉庫からずるずると引きずってきたイーゼルを、
普段根城にしているらしい造形の実技室に持ってきて椅子に座るスザクの前へ立てかけた。ぽかん、とした翡翠が
黒髪のサラリと揺れるさまを関心しように見つめる。ルルーシュの目が長い前髪の隙間からすっと覗いてきた時、やっとそこでスザクは、
彼がこれから成そうとすることを理解した。
「まさか絵画科の先生から」
「自覚あるんじゃないか、馬鹿。何で必修のはずの絵画の講義を受講しない?」
「それは」
もごもごと、何か言おうとする気配が感じ取られる。ルルーシュは目線をツナギに向けていたが、
じっと黙っていても、きっとイモ虫のように背を丸めた彼がこれから先を言うことはないだろうと思って、
先に口を開いた。
「星刻の調べによると、前期にあったデッサンの講義にはちゃんと出ていたようじゃないか。どうしてそれで、
デッサンと同じ先生でもあるのに、後期になったらそこで授業には出なくなるんだ」
「……ん」

絵画の授業が肌に合わないのか?

実技室に自分たち以外誰もいないことを確認して、そっと囁くような顰めた声でことの核心を訊けば、
俯きかけてた翡翠がはっと開かれて、こちらを見上げるようにそっと見返してきた。

「サボリ、……たかったわけじゃなくて」
「ああ」
「デッサンなら、普段作品作ってる時にやることと同じだから普通に楽しいんだけど、絵画ってなると何だか造形から浮気してるみたいな
気分になってきちゃって、……嫌になるんだ。ほら、デッサンなら、紙に人体でも風景でも描いても、手習いみたいなものだから
完成品にはならないでしょ?でも絵画は、紙に何か描いちゃうものだから、モノを立体的に形作る力がなくなってっちゃう気がして
……」




彼はスムーズに入学して、他の同期の連中と同じくこのまま行けば来年は造形科の二年生になる。
だがその言葉を聞いてルルーシュはふと思った。まさかこんな些細な齟齬≠きっかけに
『こいつは落第するんじゃないか』と。
現実主義の自分には珍しい非現実的な予感を覚えて、真っ直ぐに向けられた翡翠を前に、思わず紫電を揺らした。


(そもそも何で専門が造形だからって、他のことはしちゃいけないって話になるんだ……)


きっと、ここから先言おうとすることは先輩として言いたいことではないんだと思う。
だから、別に、聞き流すつもりで聞いてくれていいのだ。
つまらない教養の講義で不意に窓の外を見つめるような気まぐれさくらいが丁度いい。
少しだけ関心を寄せる程度の思いで、耳にしてくれたらいいのだ。


「枢木」
「はい」


すう、と息を吸い込んで、珍しく少し緊張しながら、ルルーシュはスザクの瞳を見返した。



「史学科の院生としての姿しか見てないお前からしたら、俺は首尾一貫した志の強い人間に見えるかもしれない。
だからこんなこと告白したら目から鱗のような気分を味あわせてしまうかもしれないが、
……俺は学部の四年間、絵画科だったぞ。だから教授から泣きつかれた星刻に頼まれて、
こんなもの持ってきたんだ」
トン、と目の前に置いたまま、画版もかけられずに放置されたイーゼルを小突く。
「何でだかわかるか?」
首が振られる。まだ、どこかぎこちない顔で自分の告げたことに驚いた顔をするスザクにクス、と少しだけ笑って
彼の利き手の、親指の付け根にできた胼胝に、視線を落とした。
「随分腫れてるな」
「……造形科の先生にこの間まで泊まり込みで制作してた作品、受け取り拒否されたから……今はその第二号作ってる」
「随分とスパルタだな」
「しょうがないよ。先輩も知ってるだろうけど、うちの実技審査、厳しいもん」
----------だから教務課の受付になんか居たのか。ルルーシュの目線の先で居心地悪そうに膝を揺らす彼の、
その上に乗せられたままふらふらと揺れる右手を、はじめてスザクのものじゃないような神々しいものに思えた。
「お前、星刻からは散々なことを言われていたが、意外に真面目なんだな」
「普段から作品のことと先輩のことしか考えてないキャパの狭い頭だけどね。不真面目ではないよ。ちゃんと実家から
送ってもらってる仕送りぶんぐらいは学業に専念してます」
「そうか」
「うん。だから、……嫌、なんだあ」
その『専念している』と真っ直ぐな声で語るスザクの、声のトーンがはじめて途絶えた。
右手から彼のその瞳にまだ顔をあげたら、真剣な眼差しでこちらを見ている翡翠と出会う。
なんだ、と聞かなくてもスザクが聞きたいことなど解っていた。……理由だ。
学部の四年間を絵画で過ごして、どうして院にあがる時史学へ転科したのか。聞きたいのはその心理だろう。
(……そうだな。俺はお前と同じくらいには真面目な人間だとは思うけど)
しかしお前ほど没頭できる何か≠見つけられた人間ではないよ、と、その親指の付け根にできた、
彼女なんて居たらきっと手を繋ぐのに苦労するんじゃないかなあという手に再び視線を落として、無性にそんな彼を元気づけたくなった。
(この経験が生かせるなら)
自分の家族のことを話すのよりもっと難しいことをルルーシュは沈みそうな気持ちを無理に掬いあげるよう深呼吸して、
吸った息を音もなく、吐きだすよう、言葉もまた口に乗せていった。
「絵は、……制限が多いだろう。造形より」
「うん」
「でも、だからいい≠じゃないかなと思うことがある。だからすぐにでも史学を学びたかったけど、学部は絵画科にしたんだ。
でもそれでよかったと思ってる。だって俗な話、史学で他の作家に会う時、または研究対象にしている作品に触れる時、
その相手から見下されるのなんて嫌じゃないか?こっちは絵について色々言うんだぞ。お前だって自分の作品を研究する奴が、
好き勝手なこと並べ立てるわりに絵を描かせてみて実は鳥も描けないような奴だったらどうする。将来作家になった時
展覧会なんて任せたくないだろう」
「う、うん……。てか先輩、よくそこまで、他の学科の視点から自分の専攻分野を考えられるね」
「まあな。俺は常に思考はニュートラルでいきたいんだ」
十人居れば十通りの見方が存在するように。
十も二十も数として数えられないくらい芸術が多岐に渡っているなら、その中の数個でも『自分のものだ』と胸をはれる何かがあるように。
それが学問の中で自分を位置づけるにあたって大事なことだち最近思えてきた。
だからスザクにも『自分の分野から離れていってしまっている』と恐怖を覚えたりしないで、まず真っ向から挑戦して
成功しなくても絵画で実践してみてほしい。……デッサンが楽しかったと言えるなら、それくらいすぐの道のりだろう。
(それに……)
「俺は、まだ実際に会った作家の数は少ないけれど」
「?」
「有名になるような人は、絵画も造形もデザインも何でもできる人だぞ。お前はそういう人になりたくないのか?」
「えっ、それ初耳」
「---------その道に進んだからって、その道でしか頑張らなきゃいけない必要はないんだから」
俺だってたまに自分より下手な学生を見て笑ってるんだぞ、とフフ、と小さく声にして笑って
ルルーシュは自分の鞄から6Bと4Bの鉛筆を取り出し、適当に椅子の足にかけていたスケッチブックをイーゼルへ立てかけ、
手の中の鉛筆をスザクの手のひらへ渡した。
「え」
「俺を描いてみろ。今日だけは許す」
「え、……え〜〜〜っ!」


「……早くしろ」


シャッと窓のカーテンを勢いよく引いて、外から差し込む光線が一点に集中しないように拡散させ、わざと輪郭をぼやかすよう
制限する。スザクの隣に置いていた椅子から立ち上がったルルーシュが本格的にそんな風にするものだから、
イーゼルを前に、鉛筆に目を落としたまま固まってしまった。
「先輩……サービス良すぎるんじゃ」
「別にヌードじゃないぞ。普段関心のある奴が相手のほうが筆も進みやすいんじゃないのか?」
さ、さあ、どうだろう。


そう口にする彼はルルーシュの積極性に押されるように、目の前のイーゼルの高さを自分に合わせて調節する。
その姿を5メートルほど下がったところで見たルルーシュは、満足げに穏やかに紫電を細めて、自分の目元にかかったままだった眼鏡を
指でそっと外した。



お前の前では外す約束だったな。


そう口にした言葉は、スケッチブックに集中し始めたスザクには届かなかった。
だがその時間は至極穏やかに続いたと思う。
自分が感じて得たものが、例え一番に学びたいものではなかったにせよ『四年間使ってよかったな』と思えた絵画の時間、
それを充実なものとしてスザクにも受け入れてほしかった。自分を無理やりに受け入れさせようとはせず、
ルルーシュのほうから結局求めさせた彼自身のように。

(それに一番の理由は、)


立体にしか興味のない作家にはなってほしくなかった。
平面へ気持ちを傾ける時間はきっと彼を大きくさせてくれる。……そう思ったから星刻の突飛な願いをわざわざ聞いて
イーゼルなんて引きずり出してきたんだ。ルルーシュは。



















最近説明されてルルーシュ自身も寝耳に水な話であったが、
何でも院生には夜中の九時まで申告なしで残れるという特権があったらしい。
その特権を今日初めて使った。……が、


「せんぱい〜〜開かない〜〜」

結果はこうである。


(どうして造形と史学を繋ぐ正門への渡り廊下だけ、シャッターで封鎖されるんだ?)
-------これは自分たちが入学する前からあった装置らしい。時限つきの扉なんて事前に言っておいてくれなければ
注意して通らない。全く、これを設計した奴は何を考えているんだ。
「くそ!」
がしゃん、と音立てて目の前のシャッターを蹴りつけたら、反対側にいたスザクが『駄目だよ』と駆けよってきた。
そう言えば彼は今年夏に開催された大学祭の実行委員長で、今はサークルの副リーダーらしい。まあ体よく言えば教務課のお気に入りだ。
さすがそのお気に入りに選抜されるだけはある、善良そうな瞳が、ルルーシュの素顔をひたと見つめてくる。だがそう見えたのは一瞬で
気付いたら彼の右手はルルーシュの肩にあり、膝の裏に下がっていた逆の手に体のバランスを崩され、まるで尻餅をつくように
押し倒されてしまった。
「馬鹿!何をする!!こんなところでっ!!」
「教務課で会った時、強引にどこに連れて行かれるんだろうって思ったけど、意外だったな。先輩が絵描けたのもそうだけど
僕なんかに時間割いてくれるの」
「……枢木」
そんなに普段から自分のことしか考えてなかったか……?
スザクの言葉に逆に不安になって胸がひやっとしたが、すぐにそれは瞬間熱湯された。肩に置かれていた手が顔へと上がってきて、
余所を向かないように頬を包むよう触れてきたからだ。
「ばっ、おまっ……ほんとに何考えてるんだ!防犯カメラがっ、警備会社の、つっつっ、繋がってるんだぞ!」
「暗いからわかんないよ。これだけ近くに寄せてなきゃ顔もわかんないくらい暗いのに」
「なっ、あっ……」
「ね。ほら、もう、わかんない」

(解らないのはお前の行動パターンだ)


絵画の授業の話をして萎れていた気持ちをどうにかしてやろうと清水の舞台から飛び降りるような真似をしたのに、
それすらどうでもよくどこかに吹っ飛んでいってしまった。


彼が言う通り、視界がわるくて距離もうまく掴めないから……平気で信じられない部分に触れてきても、
防御することができない。
それがたまらなく悔しくて、無意味なのを承知でスザクの手のひらに自分のそれで爪を立てた。せめてもこの痛みで正気になれ。
そんな思いで。だが暗がりだからこそ彼も手を引いたりすることはなかった。

天井が無色でそんなルルーシュを見降ろしてくる。
瞼を閉じても同じ色なんだから、結局どうしようもないことだった。

「れ、冷静に……」
「無理です」

昼間触れて、少しだけ関心した彼のいびつな手のひらが、ぎゅう、と強く握ってくる。
それほど引き出しが大きくあるとは言えない、自分の向けた優しさがこんな形で返ってくるとは思わなかったが、
彼の言葉や態度、気持ちで少しでも救われたことのある自分にとっては、このお返しのような抱擁は
『やめろ』の言葉ひとつで避けられない、温もりのうちの一つだった。